「ドイツ8日間の旅」のホームページまで、ようきんさった。
 このページは1990年〜91年(平成2〜3年)に、ベルリン市にある「森鴎外記念館」の存続運動を行った時の記録と、
訪独した時の記録を書き殴ったものを、1993年(平成4年)に小冊子にして発刊したものです。
 私のホームページを見られた方から、「なんとか読ませてほしい」とのメールがありましたが、
印刷所にも手元にも当時のファイルがなく、当時の冊子を借りてきて再びキーボードをたたきました。
 すでに10年以上たっていますから、橋本高明氏は故人に、中島巌氏は町長に、ルフトハンザ航空の友廣氏は退職されています。
 そんな事もあったのかと、いう程度にご笑覧ください。なお、写真等は省略しています。
 なお、森鴎外先生の「鴎」は正式な文字ではありません。HTMLのため、この「鴎」という文字しか使用できないことを、ここに丁重にお断りさせていただきます。
 その後のベルリン市との交流等については、津和野町の公式なHPをご覧ください。


《表紙》 
 「ふるさと津和野鴎外塾」開塾記念 

    ドイツ8日間の旅 
 
                津和野〜ベルリンの旅   糸 賀 盛 人 
             森鴎外の足跡を訪ねて   青 木 和 憲 

 
       ま え が き
 
 昭和59年7月、われわれ二人は町内の百姓仲間と韓国の農業視察に、総勢10名で訪韓した。その時の記録を、随行した県庁の槙原保氏と和田明人氏が小冊子で出版した。わずか4日間の記録であるが、今は貴重な記録として私の本棚に大事に保存してある。今回はからずも、われわれが再度一緒に海外に出かける機会を得たので、その記録を残そうと取り組んでみた。幸いにして、今回の訪問先が、ドイツのベルリン市であり、東西統一から一年目にしてその地を訪れる幸運に恵まれた。昨年取り組んだ、ドイツ森鴎外記念館存続運動の現地を、この目で見ることができるとは想像できないことであった。
 戦後45年を経て、1990年10月3日に東ドイツが西ドイツに併合されて、15州からなる「ドイツ連邦共和国」として統一国家になった。地方分権国家で、各州ごとに政治や文化に、独特の特色を持っている。
 ガイドブックによると、総面積は約38万平方キロメートルで、日本より少し小さい。山岳部は南にアルプスがあり、北は平坦地で湖が多い。
 人口は、約7、800万人。最大都市のベルリンは350万人で、人口密集地帯は多くなく、中小の都市が農業地帯と工業地帯に分散されている。
 街並は調和がとれているのが特徴で、窓には花がある。地方にはその地方の強い個性を持った建物が多く、中世紀の街並を頑固に保存している。
 声が大きく、自己主張をはっきりし、喧嘩ごしで話をしているように見えるが、清潔・正直・勤勉の国民性である。多いに学ぶところが多い国でもある。
 
 今回は出発までの日数がわずかしかなく、事前の調査や知識がないままに行ったため、道中記になってしまった事はお許しいただきたい。
     

 目   次
 
    ま え が き 
 
 津和野〜ベルリン8日間の旅              糸 賀 盛 人
 
    はじめに
    大阪〜ベルリン20時間の旅(機内記)
    バンコク・香港にもチョットだけ
    機内食
    ベルリンの街
    鴎外記念館一安心
    クーダムぶらり見て歩き これが芸術の秋だ!
    ひとりで市内観光
    ドイツの田舎
    ドイツの食卓
    後日談
    おわりに
    まず津和野から 
 
 森鴎外の足跡を訪ねて                 青 木 和 憲
 
    はじめに
    ドイツ森鴎外記念館存続の募金活動の経過
    ベルリンへの第一歩
    ベアーテ・ウェーバーさんとの出会い
    通訳は現地妻
    ベルリンの市内視察
    博物館・美術館の話
    ここが森鴎外記念館だ
    森鴎外記念館危機の背景・問題点・方策・募金
    ベルリン市中央区長さんの決断
    「津和野の皆さんようこそ」ベルリン総市長さんの挨拶
    団長の度胸
    ジャパン・フェスティバル
    困った話・もっと困った話
    ロマンチック街道・古城街道
    大役を果して
    姉妹都市の交流を 
 
    あ と が き
 
    出版を祝って                      中 島   巌 
 
 
 
津和野〜ベルリン8日間の旅
      「ふるさと津和野鴎外塾」ベルリン訪問研修団
                        団 員  糸 賀 盛 人
 
 はじめに
 
 あれは確か10月11日のことであったと思う。米の出荷に忙しいとき、農協の有田課長さんから電話があり急用とのことだった。早速農協に電話を入れると、「急で申し訳ないが、今回津和野町は「ふるさと津和野鴎外塾」という、人作り事業を実施することにした。ついては、その一環として人材育成の面から、ドイツへ町民を10名派遣することになった。その内、農業関係者2名の推薦依頼があったので、あなたと永田君に行ってもらいたい」とのことであった。
 ドイツ派遣の話はいろいろと聞いていたが、まさか私の所に話がくるとは予想しなかったことだ。そこで「まことに申し訳ないが、今年は米が不作で金がないし、この様な派遣事業は二十代の若いものを行かすのがベターだ。もう一度考えさせて欲しい」と、断わった。
 それから2〜3日して、今度は中田参事さんから「パスポートの手続きの最終リミットが10月18日であり、その他いろいろ交渉したが他の人材が見あたらない。
笹山の永田君は承諾したが、ひとつ日数もないので是非承諾して行って欲しい」とのことだった。私は、「とにかく、こらえて下さい」と、返事をした。
 その後、石川組合長さんや役場の中島助役さん、坂根企画財政課長さん、松浦農林課長さんから電話があり、なんとなく詰め将棋の王様になりつつあった。なにしろ急な話で、おまけに金がない。本当の話がおおいに困った。しかしながら、最後はとうとう断わりきれずに決断した。
 心の中では、ドイツに行くチャンスは今回が最後ではある。今回を逃したら二度と行けないだろうと、気持ちを整理し、前向きに行こうと思いつつも、今年の米の減収は大きなショックで今だに尾を引いていた。二割の収入減は、米主体の経営者には生活にかかわる大問題だ。
 役場へ承諾の手続きに行く途中、鷲原で右に折れて竹風軒の本社へ車を走らせ、山田仁通氏に「困った、どうしょうかい、やれんで、行きとうないのう」と、相談した。「何がやれんのかね。せっかくじゃけ、行きゃあええわね」とのこと。「米が不作で、金がない」と、言う。「金はいらん、遊びゃあ金がいるが、小遣いだけなら一日5千円ありゃあ充分じゃあね。まあ、小遣い5万円で行けるいね」とのこと。「人生、落ちこんどる時にいくらあくせくしても、ええことにはならん。今年みたいな年こそ、ドイツにでも行ってゆっくりして来にゃあだめいね。これも人生」と、哲学論まで飛び出した。
 そこで、「よし!ドイツに行く。たかが100万、150万足らんでも、長い人生の内には何とか取り戻せるじゃろう。行って来るけえのう」と、決断した。その足で、農協に寄って決意を述べ、役場で承諾書を書き、その足で益田にパスポートの申請に行った。
 以上のような経緯でドイツに行くことになった。
 この小冊子は、ドイツへ行くまでにいろいろな人に世話になって、研修して帰った記念として、気のついたことや思ったままのことを書いたので御笑覧下さい。
 
 大阪〜ベルリン20時間の旅(機内記)
 
 今から107年前、約50日間をかけ船を利用してドイツへ留学した、我郷土が生んだ森鴎外。鴎外が滞在した四年間の足跡は何かないか、そんなことを考えている私を乗せて、ジャンボ機は夕暮れの大阪空港を、一路ベルリンに飛びたった。
 添乗員(近畿日本ツーリストの宮尾さん)の話によると、今から20時間かけてドイツへいくそうだ。
 鴎外は50日、我々は20時間、時代は進んだのである。
 機内は満席状態。この飛行機にはなんと400人近い人が乗っている。席は新幹線の普通席より少し広い程度だ。この中で今から20時間もの夜を過ごすと思うとどうなる事やら。しかし、一行は12人(町の派遣団十人、読売新聞社の光尾記者、添乗員の宮尾さん)いるから何とかなるだろう。
 今は夜の8時、大阪を飛び立って2時間余りだ。大阪空港では、空の安全を祈りつつ最後の日本食として寿司を食べながら、機内のエチケットなどの話を宮尾さんに聞かされたが、そんな事にはお構いなく、さっそく通路でズボンを履き替える元気印氏、お話が酔い止めに一番と言ってはおしゃべりに余念のない婦人部隊、「スチュワーデスがええのお」と、言っているちょっとH氏。
 やがて、機内食だ。食前酒はやはりビアー(ビール)が一番だ。今から長い長い夜を過ごすには、飲むしかないということで、さっそくドイツビアーで乾杯した。スチュワーデスの配った食事はドイツ料理かと思いきや、何と寿司も入っているではないか。空港で最後と思っていた寿司が出た。これがホントの最後で、この後寿司を食べたのは八日目の帰ってきた日の新大阪駅であった。
 出発前の説明で、機内の飲物はいくら飲んでもタダとの話であったので、スチュワーデスがくる度にビアーの連発。しかし、狭い機内での事、酔った訳でもないのに、ビアーがこぼれて大変だった。その上、ホイル料理のアルミのふたを取るときに指を切ってしまいリバテープを探すやら………。と言う訳で第一回目の食事はアクシデント続きだった。
 
 バンコク(タイ)・香港にもチョットだけ
 
 わずかだがウトウトしたようだ。やがて、機内放送がありバンコクに到着するとのこと。バンコクは日本との時差が2時間なので、日本時間では夜中の零時四十分に着陸だ。バンコクの空港内は大きく大勢の人出で、これが夜中かと思って考えてみると、現地時間で11時頃なのだ。日本も夜間発着の空港が必要なんだと実感した。店の看板はなつかしい日本の電気会社、カメラ会社のものが目につく。免税店をブラブラしていると出発時間はあとわずか。急いで出発ロビーへ行ってみると、まだ12人組は誰も来ていない。ゲートを間違えただろうかと不安になる。そのうち、メンバー集合、機内へ。また狭い所へ入って、あと何時間だろうかと時計を見るばかり。
 シートベルトをして離陸を待つが、いくらたっても出発しない。やがて機内アナウンスで、ヨーロッパ航路が混雑していて出発が遅れるとのこと。空の航路が混雑しているという事はどういう事か、少し考えさせられたけど結論が出ず。帰りは香港で給油だそうだ。
 日本時間3時12分に離陸した。やがて機長アナウンスで、高度約1万1000メートル、外気温マイナス36度、速度は時速900キロメートル、ベルリンの天候は小雨、気温は5度、到着予定はドイツ時間午前6時10分頃とのこと。
 ちなみに、ドイツと日本との時差は八時間、だから到着は日本時間で午後2時過ぎ。時計は、ドイツ時間に合わせてある。現在ドイツ時間で夜の8時、日本を出発したのが夕方5時半、機内に10時間である。
 あと10時間の旅、寝るにはまだ早い。隣の席の若者氏は風邪気味で目はつむってはいるが眠れない様子。ビールを飲み干し、前席氏よりいただいたワインを飲む。つまみがないので婦人隊にお願いしていただく。
 機が山口線に乗っているみたいに揺れる。ヒマラヤ上空かな。夜なので何も見えない。座りっぱなしで一行はかなりくたびれた様子。だけどスチュワーデスはバンコクで総入れ替え、元気一杯なのだ。
 
 機内食
 
 また機内食がでた。夜食なのか夕食なのか、どちらがホントか分からない。メニューは前回とはかなり違う。トマトの切り方が違う。前回は輪切りだったが今回はタテ切り、あまり関係ないけど………。
 また出たホイル料理なのだ。鳥の蒸し物とキシメン、ライスは無く黒パン、はしもなくなった。少しずつ訳の分からない料理が出てくる。困ったものだ。食後は「ティー・オア・コフィー?」小生はジャパニーズ・ティーをもらう。若者氏はウォーター、一口飲んで「こりゃあやれん」と、言う。小生もやってみると、これが有名なガス入り水。炭酸飲料の無味無臭みたいなものである。明日からは水といえば毎日これだソーダ………。
 アゴを触れば髭が伸びている様子。それはそうだ、津和野を出てから、早一日過ぎようとしているのだ。食後、映画を二本見て、寝たり起きたり………。
 まだ外は暗い。下を見ればモスクワ市街だろうか、灯が見える。かなりの時間寝たのだろうか、スチュワーデスが朝食の準備をしている。目が覚めてトイレに行き、髭を剃り、顔を洗ったらさっぱりした。
 ドイツ時間で4時半、朝食を全員おいしく食べる。食べた後が大変、トイレ合戦である。男性はそうでもないが、女性が入るとそこで着替えと化粧とで長時間。トイレも済まし、ベルトサインがつき、いよいよ着陸だ。
 外気温は3度との報告。鴎外がおよそ百年前にいたベルリンの町だ。高度が下がり、耳がツーンとなる。ネクタイを締め直し、スリッパを靴に履き替え、スーツを着て、着陸を待つばかり。ズドーン、ガクガク「ウヒョー」思わず声が出た。かなりひどい着陸である。外はまだ暗い。時計を見ると6時8分であった。津和野を朝10時に出発したから28時間の旅であった。
 空港は強い雨だ。タラップを降りるなんて出雲空港の感じだ。税関はフリーパスなのだ。着いた空港は旧東ベルリンのシェーネフェルト空港で、後で聞いた話だが、この空港にジャンボ機が降りるのは、なんとつい3日前からだそうで、ディトリッヒ機長も初めてこの空港に来たそうである。なんとも恐ろしいことだ。
 空港では、ルフトハンザ航空の友廣さん、ベルリン森鴎外記念館総務理事のウェーバーさんの歓迎を受けて一行は大喜び。その後大型バスへ乗り、通訳のノブコなんとかさんの案内で、薄暗い雨のベルリン市街へ出発した。
 
 ベルリンの街
 
 きれいに頭をチョン切られたような家並み、林の中を通るような市内の道路、空カンの無い市街、落葉ばかりの道路、きれいではあるが(街並みが)寒々とした街並み(実際雨が降って寒かったのだけど)。駐車違反だらけの道路、ゴミ入れポストの多い歩道、窓に花と植木があるアパート、とにかくきれいな街である。
 市街地の見た感じは以上のようなことだけど、これにノブコさん(日本人で、10年前にベルリン市警の警視さんのところへ嫁ぎ、通訳兼ガイドをしている1941年生まれの女性)の、案内が入ると感心させられることばかり。
 俗にいう雑居ビル風の建物、この建物の1階部分(ドイツではここを0階、2階が1階となるそうだ。ホテルもそうであった)。1階は商店や事務所、2階より上はほとんどアパートなのだ。
 頭をチョン切られているのは高さ制限があって、法律で決められ、高くても低くてもいけないとのこと。こんなことは日本では考えられないことだ。
 「駐車違反」が多いのも車庫がなく、駐車場も個人用はほとんど見あたらないので、路上しか駐車する事ができないのだ。しかし、これが駐車違反でなく駐車スペースだそうだ。また、前後の車間距離もほとんどなく駐車してある。ノブコさんの話だと、車で前後に押して出るとのこと。そういえば、いつかTVで映っていたような気がした。バンパーはそのためにあるのだなあ、ドイツの車は強いなあ、と感心感心!
 車の事をもう少し書いておく事としよう。
 ドイツの車といえばあの有名なベンツ車、日本ではベンツが来たら逃げろと言われているあのベンツだ。ちなみにドイツのタクシーはほとんどベンツ車だ。ノブコさんの話だと、先日のドイツのTVで、なんと、70万キロメートル走行したベンツがあるとのこと、驚くばかり。
 日本車は、たまに見るくらい。日本車の看板はアチコチにある。特に目立ったのは、旧帝国議会議事堂(今は使われていないが、いずれ新制ドイツの国会議事堂になる)の隣のシュプレー川対岸(旧東ベルリン)にあるT社の看板だ。東西統一になってすぐ、地価の安い時買ったようで、日本人の商魂たくましさが見え、恥ずかしい気がした。
 車の事でもう少し書くと、トラバントという車の事を紹介しよう。この車は、旧東ドイツの大衆車で、統合なるまでは、東側ではほとんどこの車だった。この車、何が違うかと言うと、車体が紙(段ボール紙)でできているのだ。ノブコさんからその車体の破片を土産にいただき、実際に見て驚くばかり。もし見たい方は小生の方まで連絡を………。統合なるまでの東側の経済状況が分かる気がした。
 道路事情、交通事情であるが、道路は車は右側通行なので、はじめの頃は恐くて、「アレッ!」の連続。高速道路はアウトバーンと言って、バスは最高時速110キロメートルに制限されているようだが、普通車は制限速度は無いとのこと。大丈夫かな、そんなの。
 また、交通網はかなり整備されている。地下鉄はU(ユー)バーン、看板はUの字。バスはH(エイチ)バーン。ドイツ国内は、いくら田舎でもバス停は「H」の黄色の看板があった。
 道路に空カンが無いのは、何の事はない、自動販売機が無いからだ。自動販売機があるのは、タバコともう一つの「ある物」だけ。このある物はトイレの中にあるのだ。コインを入れて買った元気印氏がおられるので、何かは分かった。
 ドイツでは、缶ジュース、缶ビールを飲んでいる人はほとんど見かけなかった。その代わりはビンのようだ。
 街を歩いて見ると、ゴミの少ないのに驚く。タバコの吸いがらも、人の多いところでは少しあるけど、津和野の町内よりははるかに少ない。小生もくわえタバコで歩いたけど、百メートルおき位の街灯の柱に、鋳物製のゴミ箱が付けてあるのだ。このごみ箱、市の清掃車が定期的に回収するとあって、満杯の所は無かった。
 また、大変なのが街路樹の落葉処理だろう。夏は日陰となり涼しそうだが、今頃ものすごい量の落葉である。街路樹というよりは街路やぶの方が良いかも………。下枝は打ってあるが、上は伸び放題。このまま置いておくとどうなるのだろう。
 ベルリンは森が多い。350万人の人口があるこの町でも、あちこちに大きな森がある。シャルロッテンブルク城の公園ではリスが遊んでいた。
 古い街並をかたくななまでに保存しようとしているドイツ魂。津和野が見習う事はおおいにある。
 
 森鴎外記念館一安心
 
 津和野で「ドイツ森鴎外記念館存続の会(橋本高明会長)」が設立され、ドイツの森鴎外記念館存続運動の募金活動をしたのが、一年前だ。この運動に参加した小生が、記念館存続のお願いにベルリンに行くとは予想もつかなかったことだ。
 鴎外記念館をこの目で見、ベルント館長(フンボルト大学日本語科教授)、ウェーバー女史と直に話をし、ベルリン市の中央区(人口八万人・記念館のある区)の区長さんと記念館の話をした。
 ベルリン総市長主催のパーティーに招かれた。市長あいさつの中で、四百人日本人招待客の前で「津和野から来られた皆様方に、特にあいさつ申し上げます」とのこと。また、その後の方では、記念館の存続については、何とか方法を見出したい旨のお言葉、まさかそんなことをあいさつの中で聞こうとは、夢のかけらも思ってなかった。ビデオを持つ手が震えたのである。
 人生色々感激はあるが、近頃久々の大感激であり、嬉し涙がこぼれたのである。
 津和野で募金運動を頑張ってやってきた方々、特に活動資金や調査資金を出した橋本会長、山田仁通氏等が会場にいたら、さぞかし喜んだろうなと思うと、何とも言えない気持ち。我家へも電話をしないのに、早速山田仁通氏へ電話で連絡した。大喜びの様子だった。その夜は祝杯、そして夜の街へ。
 朝起きると、日本からファックスが入った。何と光尾記者の記事が、読売新聞の夕刊トップではないか。光尾記者の話によると、田舎駐在の記者で全国紙のトップ記事になる事はそうそうないとのことだ。訪問団一同、これで安心して津和野へ帰れると、バイキングの朝食もにこやか顔だ。これから津和野町の対応が大変だけど、町長さん頼みましたぞ………。
 ベルリンの中央区長さんは、姉妹都市を結んで人と人の交流をして行きましょうとまで言っておられるのだから………。
 
 クーダムぶらり見て歩き
          これが芸術の秋だ!
 
 ベルリン(西)の銀座クーダム、正式な呼び名はクアフュルステンダム。タウエンチェン通りからハーレンゼーまでの三・五キロメートルの道路周辺をいう。
 ベルリン滞在3日目のことだ。ドイツ料理に耐えかねて、昼食は何か口に合う物はないかと宮尾女史に相談してバスの中から見えた中華料理屋へ行った。行ってみると、団長のお供で別行動であった、元気印氏と友廣さんが一足先に来ていた。なんと、パーティー会場に入られたのは団長だけとのこと。かわいそうに。
 我ら一行久々にややそれらしき食料にありつけ、やや満足した。
 食後の行動について宮尾女史がさらりと言う。「今から、コンチネンタルホテルへ行きます。そこには三越百貨店が臨時にみやげ品を売ってます。今日は土曜日なので他の店は全部休みです。教会を見てから、15分くらい歩いて行きます。さあ、ついて来て下さい」。
 こうなると、何か文句を言うのが小生の性分「僕は別行動をしますが、いいですか」。
 「それはいいですが、道に迷わないようホテルへ帰って下さい」。
 「わかりました」。少々不満気味な宮尾女史。
 さあ、これからだ………。
 
 ひとりで市内観光
 
 カイザー・ヴィルヘルム記念教会。この教会は第二次世界大戦で破壊されたままの姿を保存してある。丁度、広島の原爆ドームだ。その隣に新教会が支え合うように立っている。新教会のステンドグラスの美しさ、見事である。
 教会を出て一行と別れ、反対方向へ行くと、何か音楽が聞こえる。自転車にラジカセを積んで、カウボーイ・ハットをかぶり、手にはスプーンを2本持ってリズムを取っている。暫く見ていたら、リズムに合わせ2本のスプーンを腿と手でカチャカチャ鳴らしている。一曲終わると大道芸に皆で拍手。前に置いてあるバケツに何人かが一マルクコインを投げ込んでいる。小生も一マルクコインを投げ込んだ。
 風は寒く、山田氏に借りてきた革ジャンの衿を立てる。
 一人歩きなので迷子にならないようにと、ホテル方向へブラブラしていると、何か珍しい音、メロディー。人だかりがしているので行ってみると、話には聞いた事がある「風琴」だ。手押し車の上で、手でハンドルを回し、オルガン風の音が出る機械なのだ。老人2人が山高帽をかぶり、交替で異なるメロディーを奏でている。「いいなあ…。これがベルリンか」と、久々にゆったりとしている小生である。周りの人は皆ドイツ人。誰もにこやかな顔をしている。
 寒さが増したので歩いた。やがて、ヨーロッパ・センターの下にきた。見覚えのあるウィンドーの側を通った。そうだ、ここの2階は昨日昼食を食べた所だ。中に入ると高さ13メートルの「水時計」が、相変わらず動いていた。
 ジャズらしきメロディーが聞こえてきた。レコードでもかかっているのだろうかと音のする方へ入っていくと、バンドがいるではないか。これこそ黒山の人だかり。かき分けかき分け、かぶりつきへ行きしばらく聞きほれる。今度来るときは、せめてオペラ劇場には行ってみたい。
 このヨーロッパ・センターは、ブティック、レストラン等々、約百軒の店と五軒の映画館があり、屋上には、我々のホテルへ行くときの目印となるベンツのマークがある103メートルの建物だ。その1階部分は、吹き抜けになっていて、そこのフロアーで演奏しているのだ。
 「これがタダとは」と、独り言。近所の笹木康弘君に借りたビデオカメラで収録、ついにエンドマークが出た。バンドは続いていたが、もう四時を過ぎるので名残りはあったがその場を離れた。
 明日からのテープがないのでカメラ屋へ行く。ドイツの店はレストラン等一部を除いては土曜の午後、日曜は休みで、違反したら罰金と宮尾女史の話を思い出す。閉まりかけているカメラ屋へ行くと兄ちゃんが二人いるので、ビデオカメラを見せて、手真似で注文した。しかしその店には無いので、困った格好をすると、その兄ちゃん、隣の電気屋の扉をたたいて呼び出してくれた。TDK90分テープを26マルクで買えたのである。土曜午後の買い物も兄ちゃんのおかげで……ダンケ、ダンケ。
 外へ出ると、もう薄暗い。急ぎ足で迷わずホテルへ帰る。若者氏は帰っておらず、風呂へ湯をいれ、ゆったりつかる。さっぱりして一寝入りした。
 ベルリンの芸術の秋を堪能した一人歩きの半日だった。ああ、さわやか、さわやか! なお、ぶらり歩きのビデオテープがありますので、見たい方は連絡を!
 
 ドイツの田舎
 
 一口で言えば、きれいな風景画のようである。
 今回の訪問団は、ベルリンに3泊、ミュンヘンに1泊、ハイデルベルグに1泊、民泊は無く、農業視察も無かった。飛行機、バスの窓から見ただけの感覚で、田舎の様子を書くことはおこがましいようであるが、小生、百姓を業としているので、どうしても書かなくてはならない。
 まず、はじめに農村を見たのは東ベルリンのアレクサンダー広場にある、207メートルの高さのテレビ塔にあるテレ・カフェから見た風景だ。田舎は、遥か彼方ではあるが、山は無く、広大な風景であった。次に見たのは、ベルリンからミュンヘンへ行く飛行機の中だ。この時ははっきり見えた。「きれいだなあ…」と、絵を見てるようだった。翌日は、ミュンヘンからノイシュヴァンシュタイン城までのロマンティック街道を通り、ハイデルベルグに着くまでの農村地帯で、ほとんど同じような農村風景だ。私の大好きな風景だった。
 農村は、殆ど畑で、家の廻りに少しの果樹があるだけで、山も「山」というよりは「森と丘」である。田んぼは全然見かけなかった。畑は殆どが飼料畑である。飼料畑には有刺鉄線が張り巡らしてあり、放牧がしてある。初冬なので、あまり多くの家畜は見えなかったが、乳牛、肉牛、豚、羊が見えた。家の側には地鶏の姿も見え、わが家の鶏を思い出す。
 バスは、田舎の中の二車線道路を踏切も止まらず走る。田舎の家は、畑の中のあちこちに点在するものもあるけど、集合住宅もある。サンタクロースが入られそうな煙突からゆったりと煙も出ている。薪も各農家にうずたかく積んである。
 あちこちに教会もある。教会を中心に一つの集落がつくられているのだろうか。教会単位くらいにサッカー場も見える。畑にはイネ科牧草、麦、飼料蕪(とはじめは思ったけど、あれは砂糖大根だ)で、野菜は家の近くで、家庭菜園程度作っているようだ。
 
 ドイツの食卓
 
 野菜の事であるが、ベルリンでは朝市、ハイデルベルグではスーパーへ自分で出かけてみたが、種類は日本ほど豊かではない。というのも、ドイツの食事はたいへん質素だからだ。朝はパンとコーヒー、昼、夜はスープ、パン、コーヒー、小生はビール(ドイツではビールの事を液体のパンと言っている)、メインディッシュは肉料理か白身の魚にソースを掛けた料理とポテトと少々の野菜で一皿、それにデザート…。これがツアー中の主なメニュー。野菜の種類はあまり必要が無いのだろう。
 
 ビールの事をもう少し…。ビール会社は、旧西ドイツだけで実に千二百社、種類は四千種あり、原料は麦、水、イースト、ホップで、同じ原料だけで色々な味を出している。丁度日本の地酒と同じだ。小生ビールが好きなので、転作でビール麦とホップを作り、ビールを作ってみたいものである。
 話は脇道へそれてしまったが、ドイツには「わが村は美しくコンテスト」がある。とにかくきれいで、のどかである。これは、広いからそう見えるのでもあろうが、バスから見る限り、雑草が伸び放題(転作田を管理しないで一年も放っているような所)の所は殆ど見えない。行政が、環境整備に助成をしているのかもしれない。
 
 私の住んでいる地域も、ドイツの田舎ほどとはいわないまでも、精一杯努力したい。日本も都会のゴミゴミした所の人が、田舎でゆっくり「Village Stay」をする時代が来るような気がする。その時に薮だらけの村ではどうにもならない。自分達が住んでも気持ちがいい、よその人が来ても気持ちいい村を作りたいものだ。
 今回の訪問では、農村、農業は見るだけだったので、この程度の事しか書けなくて残念である。
 
 後日談
 
 ドイツの研修から帰ってはや一カ月半になる。「ドイツは、どうじゃったかね」との、質問ばかりである。小生曰く、「何のジャンルの話をしましょうかいね。一言で言うと、良かったいね」と、他に言いようがない。生意気な言い方ではあるが、短時間で話すのは困難を極める。
 しかし、厳しい財源の町費を使って研修したので、町民にとっては聞きたいのは当り前である。断片的に各種会合で話したが、責任上何か後に少しでも残ればと思い、少しづつ書き綴っていた。
 しばらくして、副団長の青木和憲氏から「盛りちゃん、報告書はかいたかね。時間を見つけては少しづつ書いとったら、取り留めがなくなってしもうた。あんまり書くことが多かったので、書きすぎたけえ整理しよるとこじゃあね」と、電話があった。私も、思いついたことを書きとっておいたので、整理をどうしようかと思っていたところだった。「せっかく書いたが、報告書に載せるには多いし、かといってボツにするには惜しいし」「どうかね、小冊子を作らんかね」「わしもそう思いよったところいや」との、やり取りがあった。
 青木副団長とは、昭和59年7月に町内の農協青年連盟の盟友と県庁の職員、山陰中央新報社の記者10名で農業視察で訪韓した一人である。あの当時は、韓国米が初めて下関港や名古屋港に、輸入され陸上げされた年でもあった。また、韓国産の栗が非常に安く輸入されるということもあって、調査に自費で行った経緯がある。 帰国後、同行した県庁職員の槙原保氏が、同じく同行した和田明人氏の協力を得て「韓国縦断4日間」と、いう冊子を出版した。そういうこともあり、この次にどこかへ行く機会があったら、なにか冊子を作ってみたい気があった。が、そんなことができるとは思っていなかったのが本音だ。
 「やれるところまで、やってみるかあ」と、いつもの調子で出発した。テーマ別にいろいろと書いたが、まだ書きたいことが山ほどある。それは、帰っていろいろな情報、特にドイツに関する情報を見るにつけ、あれもこれもと思う。また、わずか8日間でドイツと日本を比較するのはおこがましいことではあるが、やはり比較したくなる。 
 
 おわりに
 
 ドイツと日本というよりは、ヨーロッパと日本は何が違うかというと、日本は使い捨て社会である。ヨーロッパは物を大切に使う社会であると言えるのではないか。ドイツでも、廃車になったと思われる自動車が、たまに一台見かける程度で、日本みたいに公害に廃車の山がある風景には出会ったことがない。ひょっとすると隠してあるかも知れないが、そんなことはないと思う。
 日本は資源もないのに、作っては売り、古くなったらポイ!。自動車だけでなく全てがそうだ。日本国内向けならよいが、外国特にアメリカへ向けたおかげで、正月そうそうブッシュ・アメリカ大統領が自動車メーカーと同伴で文句を言いに来る。ついでに、米までトバッチリを受けて市場開放を迫られる。その挙げ句の果てがゴミ問題!どうかしているよ、日本は。
 
 たったこの前、40年代の頃は家庭で出るゴミは自分の家で焼くなり埋めるなりして処理していた。今では、木部の奥まで収集してもらう。ありがたいことではあるが、どうしてこういう事になったのか考えなければならない。ドイツでは、ゴミは分別収集しないそうだ。出たゴミを郊外に山のように積んで、その上に土をかけ芝を植えて植樹をし、公園にした所がある。いずれ腐って水質汚染を生みそうだが、起こらないであろう。それは、私の考えであるが、自然に近い食品で不必要な添加物が使用してないから大丈夫だと思う。
 儲けさえすれば何でもやれ。そんなことをしないのである。考えんといけんぞ!日本は。こんなことを書いても誰も聞いてはくれないだろうが、せめてわが津和野町からでも考え直したいものだ。「資源には限りがある日本」このセリフを何年前から言っていることか。今までの日本は、アメリカに追いつけ追い越せでやってきたが、いつの間にやら追い越してしまったようだ。こうなると自由社会ではこき下ろされることばかりになる。なり振りかまわず外貨を稼いで、世界一長いトンネルを掘って、世界一長い橋を架け、高いビルを造っているが、もう外国は黙っていないぞ。
 
 まず津和野から
 
 今から、日本とは言わないが、津和野町、わが集落は互いに住民が無駄をせず、物を大事に使い、協力して行かなければならない。
 特に津和野は、古いものを大切にして来た町だ。この思想を大切にして町民の儲け本位でなく、どうしたら古い街並みが保存維持できるか、行政も言いたいことは言い、協力をしてもらう。そして、援助もすると言う姿勢が欲しい。今回のドイツ訪問は、私にとっていろいろな勉強をさせてもらった。
 
 今回の「ふるさと津和野鴎外塾」ベルリン訪問研修事業に、ご尽力いただいた町御当局ならびに各方面の方々に感謝をしたい。
 今後、このような研修が続けられると思うが、若い者特に20才台の青年を毎年10名程度は海外へ派遣してもらいたい。ドイツへ行って帰るまでは、どうなることやらと思っていたが「百聞は一見に如かず」である。今回の訪問団の一員として、ドイツで学んで来たことを町の為に生かしたい。
 
 ドイツよ  ダンケシェーン。
 団員の皆様 ダンケシェーン。
 町民の皆様 ダンケシェーン。 
 
 
 森鴎外の足跡を訪ねて
      「ふるさと津和野鴎外塾」ベルリン訪問研修団 
                        副団長  青 木 和 憲
 
 はじめに
 
 横なぐりの雨が「グーテン・モルゲン」と、歓迎してくれるように吹きつける。まだ朝の明けきらないベルリン・シューネフェルド空港に六時八分、大阪発LH743便のルフトハンザ航空のジャンボ機は定刻通り、無事着陸した。まだ、多くの日本人が訪れることのなかった旧東ドイツに、その第一歩を記すことに対する興奮と期待が交差している。本来なら、フランクフルトを経由してベルリンに飛行するコースを、今回は特別にドイツ政府の計らいにより、ベルリンに直行することができた。
 飛行機に乗っていること18時間。「われわれは18時間で訪れたが、鴎外は50日間も船に揺られ大変だったろうな」と思う。107年前に留学のためこの地に降り立った、22才の若き陸軍二等軍医の姿を想いつつ、その年月の変化、その足跡に少しでも触れることができるならと、タラップを降りる。
 現地は11月7日(木)6時だが、時差8時間なので津和野は7日の午後2時過ぎになる。途中給油のためタイのバンコク国際空港に立ち寄り、機内で夕食、朝食、昼食と3度の食事を取り、寝たり起きたりの繰り返しで、夜が本当に長かった。いくら時間が経っても夜の闇。窓側の席に座った山岡団員は「モスクワの夜景がとてもきれいだった」と、話す。
 
 ドイツ森鴎外記念館存続の募金活動の経過
 
 5月15日は、わが家の田植も終わり、太鼓谷稲成神社春の大祭の日でもある。その朝、山陰中央新報の地域版に「ドイツの東ベルリンにある森鴎外記念館が閉館の危機にある」との新聞報道が目に飛び込んできた。内容は、28年余にもわたった東西ベルリンの分割、その象徴の壁が崩壊し、統一ドイツへの歩みの中で、ドイツ森鴎外記念館が資金難から、閉館の危機にあると運営に携わってきたベルント教授が、日本政府に資金援助、協力を呼びかけてきたことが掲載されていた。
 これは大変なことになっているなと思い、どうすることが最善の道かなと思っているところへ、津和野町国際交流会議会長の橋本高明氏より募金活動をして「森鴎外の生誕の地」としての義務を果たさなければならない旨の話があった。山田仁通氏からも同様の話が持ち上がり、具体的な活動に移る。
 アメリカのベイツ大学のホームステイを受け入れた、津和野町国際交流会議という民間団体が結成されており、この組織を基盤にして活動に入った。また、行政にも働きかけ、新しい組織の結成をみることになった。
 「ドイツ森鴎外記念館存続の会」を結成し、会長に橋本高明氏を選出、事務局は観光協会の協力により同協会内に置き、神山事務局長さんには大変お世話になった。
 6月24日、橋本高明氏、山田仁通氏、宮藤商工観光課長、糸賀盛人氏、渡辺重利氏と私とが集まり、すでに行った調査や情報を基に協議した。その結果、時間的余裕がないので、実行あるのみとの結論を得、東京に実際に調査、陳情に行くことにした。
 6月定例議会で、この問題を取り上げ一般質問をする。町長から「行政としてもできる限りの援助の手を差し伸べる」との、答弁があった。
 7月3日、共同記者会見をして、今日までの経過を説明する。町内10カ所に募金箱を設置、新聞折込による募金協力、援助に対する理解を得る啓蒙活動に入る。
 7月9日、橋本会長と上京する。三鷹市の禅林寺においての「鴎外忌」に参列し、遺族の方々、森鴎外記念会の方々に経過を報告し、共に活動を誓い合う。
 翌10日、京橋の「日本DDR文化協会」に出向き、森事務局長と会談し、今後の活動に対して情報入手の協力を要請する。
 島根県事務所に挨拶に出向き、藤山次長に経過を報告し協力を要請する。
 文京区の「鴎外記念本郷図書館」に挨拶に出向く。山崎事務局長、太田館長に経過を報告し、記念会の実情を聞く。そこで、横浜市が、鴎外が横浜市民の歌の作詞者なので募金活動に協力することや、企業の協力が得られそうだとの説明を受ける。
 午後、外務省を訪れ欧亜局東欧課の長井主席事務官に面会し、こちらの経過報告をし外務省の対応の説明を受ける。すでに、北九州市はこの件についての対応を協議し、連絡を取った事や、外務省が調査員を派遣する予定が都合により中止になった事、超党派による国会議員の調査団が、近日中に現地に行くこと等の説明をうける。(今回の訪問で、小沢一郎衆議院議員他数名の署名がベルリンの森鴎外記念館にあった)。2泊3日の強行日程をこなし、当初の目的は達することができた。
 
 募金箱の設置、郵送による募金の受付等が進む中、津和野高校が甲子園に出場するという栄誉に輝く。相手校は、校歌を鴎外が作詞したY校の横浜商業高校と決まり、時期的に因縁めいたものが脳裏をよぎる。
 11月30日、募金箱を回収する。山陰合同銀行津和野支店の二階会議室において集計する。この様子はNHKのニュースで放映される。合計25万4,708円が集まる。東京の森鴎外記念会より受け入れの連絡があるまで会で保管する。そのニュースや新聞報道により、その後も送金があった。最終的には、総額54万6,719円が寄せられた。
 平成3年2月12日、東京の森鴎外記念会に送金を完了し、その時点で「ドイツ森鴎外記念館存続の会」は活動を停止した。
 
 ベルリンへの第一歩
 
 「寒い!」寒いと覚悟はしていたものの、これは日本の真冬だ。到着ロビーでトランクが出るまでの間、外の様子を伺うも暗くてよく分からない。ルフトハンザ航空の友廣氏が出迎えてくれた。その後方になつかしい顔が手を振って、笑顔で語りかけてきた。ドイツ森鴎外記念館の総務理事ベアーテ・ウェーバーさんである。
 
 ベアーテ・ウェーバーさんとの出会い
 
 昨年11月16日、北九州市で「森鴎外展」が開催された。講師として、ドイツの森鴎外記念館総務理事のベアーテ・ウェーバーさんが、来日されているとの情報が、教育委員会の長嶺常盤さんよりあり、津和野へご足労を願う。役場に来られ、「今回の募金活動に対して、お礼を言う機会が得られ、さらに鴎外生誕の地に来られて嬉しい。日本の、この様な小さな町から援助の声が上がった事に対して感謝にたえない。ありがとうございます」と、上手な日本語で話された。
 町内の鴎外旧居や、郷土館を案内し、町長、橋本会長、森澄氏を囲んで昼食を共にした。小郡までの送迎をし、日帰りであったが、再会を約束して別れた。今回の訪問団の一員になって、この地で再び会えるとは思いもつかぬことであった。
 
 通訳のノブコさん
 
 日本人の女性が通訳として紹介された。ノブコ・フーアマンさんで、ドイツ人の警察官の御主人と結婚している。ベルリン最後の夜、彼女の粋な図らいで、彼女のマンションを訪問することができた。ドイツでは75%の人がアパート暮しで、2DKから3DKだそうだ。家賃は、1平方メートル当り5〜12マルクだそうで、通常50〜80平方メートルに住んでいる。彼女のアパートは100平方メートルあるので、リッチな方と言っていた。
 御主人の名前を忘れたが、髭面の大男だったが、非常にユーモアのある人で、我々を笑わせた。ちょうどその日は、デモがあり警戒にあたっていた日で、帰ったばかりだと言っていたが快く招き入れていただき歓談した。山村団員と私を夫婦と思ったり、糸賀団員と青松団員をそういう風にみたり(本当は親子と見たと思う)して、何故もっとくっついて座らないかと言って、不思議がったりした。目の前で抱き合ったりチュウをしたりで、負けそう。ドイツでは、瓶ビールは口飲みが多いそうで、われわれにも口飲みを勧めたが、慣れないので泡で飲みにくかった。帰る時、土産に男性には、ドイツ警察のマークの入ったビヤジョッキを、女性にはワッペンをいただいた。帰国してから、和紙の着め込み人形をクリスマスプレゼントとして送った。送料が3,000円ばかりだった。
 
 ベルリンの市内視察
 
 朝は早いし、暗いのでコーヒーでも飲んで、ゆっくりしようということになった。車窓は雨でよく分からないが、東ベルリンにきた事は確かなようだ。看板の文字が読めない。何でも見てやろうという気持ちが焦って、カメラを向けるが暗くてだめだ。糸賀団員はビデオを回している。最近は性能がいいから腕は二の次なんていうと失礼だろう。帰ってからの報告では、このビデオテープは八時間写したそうだ。
 「ベルリンは、水と運河と緑の多い都市として誇り、面積は883平方キロメートル、東側12区、西側11区の23区からなり、人口350万人です。ドイツは朝が早く6時半にはラッシュが始まります」と、説明が始まった。7時前というのに確かに車が多い。早い勤務の場合は6時から3時までの勤務があるという。ホテル近くの工事現場は七時から始まっていた。学校も8時の始業なので、暗い内から通学をしている。
 40分ばかりで、ベルリンの宿泊先のホテルに着いた。シュタインゲンバーガーというホテルで、ガイドブックには三指に入る高級ホテルということになっている。荷物を降ろして休み、早速日本に電話をする。公衆電話からダイヤル直通だ。0081−8567−2−1970で、津和野のわが家へすぐつながる。1マルクコイン(80円)で、「今ベルリンに着いた。寒い。こっちは今朝の9時。元気」くらいが話せる。驚くほどはっきりとした明瞭な会話ができる。
 市内観光に出発する。「なんかー、ありゃー。広島の原爆ドームみたいじゃのう」、団員が言う。津和野弁丸だし。カイザー・ビィルヘルム記念教会が目に飛び込んでくる。第二次世界大戦で砲撃されたままで残っている。
 通りの周囲はベンツやBMW、ワーゲン、アウディといった車が野ざらしで、カエデの落葉に埋まっている。「車庫に入れとかんのかのー。ここじゃあ、ベンツはタクシーじゃけえのう」。日本車はマツダ、日産が目につく。
 強い雨の中、オリンピックスタジアムに着いた。1936年ヒトラーがオリンピックを開催した所で、8万人の収容能力を誇る大きなスタジアムだ。現在は、全天候型になっているが、大理石を惜しげもなくふんだんに使っているところは、石の文化という言葉があてはまる。「前畑がんばれ、前畑がんばれ」の名文句は、ここベルリンオリンピックでのことだ。このスタジアムの隣が水泳競技場になっている。正面入口には、前畑選手の名前が刻まれたプレートが埋め込まれている。
 
 博物館、美術館の話
 
 エジプトの財宝が展示されている、エジプト博物館に行き、紀元前1350年頃のネフェルティティやミイラ等を観賞した。
 ぺルガモン博物館には、紀元前180年のアテネの聖壇が復元されているが、その規模の大きいことは想像を絶する。その上、私のように芸術の教養の乏しい者には理解しにくい面がある。
 ミュンヘンでは、美術館に行ったが絵の事が理解できないので、もったいない話である。山岡団員は「この絵は誰が描いた。この作者はなになに派だ」とか言って感心していた。
 ただ分かったことは、日曜日や祭日には無料で開館して、文化の向上に努めていた。日本では宮沢りえのヌード写真集に男達が殺到して130万部も売り上げたそうだが、これも貧困な文化の違いだろう。
 
 ここが森鴎外記念館だ
 
 11月8日、午前中は市内観光を中心に回った。とにかくベルリンに来たのだから、早く凱旋門の東西分断の象徴である、ブランデンブルグ門を見たい。東西を分けた壁の後が見たい。そんな気持ちでいっぱいだ。フンボルト大学からウンター・デン・リンデン、ブランデンブルグ門、勝利の塔、エルンスト・ロイター広場を結ぶまっすぐに延びた道路が印象的だった。その距離およそ5キロメートルくらい、ヒトラーは、ここを飛行機の離発着場にしようとしていたようだ。
 この道路は6月17日通りと呼ばれ、その周辺はオペラ劇場、旧帝国議事堂、日独文化センター、工科・芸術大学、国際会議場があり、とにかくあっけにとられ、歴史と文化を見ることができた。ブランデンブルグ門の北側1キロメートルの所に森鴎外記念館がある。
 
 森鴎外記念館に向かった。鴎外はベルリンで3回下宿を変えており、第二次世界大戦で他の2カ所は消失しているが、最初に住んだ中央区ヘルマン・マータルン通り39番地だけは戦火を免れ、この建物が当時のまま残されており、2階部分の3部屋が「森鴎外記念館」として、日独友好の役割を果たしている。
 この建物は、4階建てでベルリンの中心地に位置し、今後再開発地域に組み込まれると思われる。
 記念館の入口に立ち、橋本氏が一緒だと感激したろうなと思った。入口の右側には、「MORI OUGAI GEDENKSTATTE (森鴎外記念館)」と書かれたプレートが埋め込まれている。階段を上がって、二階のドアを開ける。当時の様子がしのばれる。左側の通路の奥の部屋に、当時使っていたのと同様なベッドがあり右側に机が据え付けられている。正面には時計が架けてあり、非常に価値の高いものであることが伺える。早速、机に座り鴎外の気分にひたる。団長をはじめ、団員全員がこの机に座り、訪館者名簿に署名をする。
 入口の右の部屋は、ベルリンフンボルト大学日本学科教授で、森鴎外記念館館長のユルゲン・ベルント氏の執務室兼館長室になっている。挨拶を交わし、次の部屋で話合いにはいった。
 
 森鴎外記念館の危機の背景
 
 1984年、ベルント教授によって「森鴎外記念館」が設立され、復活するその際フンボルト大学から2万5千マルク(200万円)が助成された。その意味では森鴎外記念館は付属機関といえる。しかし、文書で明記した書類等はない。
 森鴎外記念館のある土地、建物は旧東ベルリンが所有しているが、統一ドイツ後は旧地主、所有者が現れることが予想される。
 フンボルト大学が、維持、運営費をいくら支払っているかは不明であるが、大学は、それらの類似の施設、建物が180件あり、一括して支払っており、森鴎外記念館の維持、運営費が大学より助成されない場合は、1991年末で行き詰まることが予想される。
 統一ドイツ後に、新しく州制度が導入されるため、ベルリン市の位置付け不明であり、ベルリン市が首都として一つの州になるか、市になるかによって大学の合併、再編成が予想される。
 また、森鴎外がドイツ国民に広く知れ渡っていない。よって、存続の理解と援助が得られるかが不安である。それに加えて、ドイツ人は日本に対しての関心があまりない。以上のような点が問題になり、ベルント教授が日本政府に援助を依頼にきた経緯である。
 
 ベルント教授、ウェーバーさんを囲んで話し合いに入る。中島巌団長が最初にこの訪問団のいきさつ、使命を挨拶の中で、「日本の産んだ偉大な文豪として、わが津和野の誇る先哲を、このベルリンの地で継承していただき、記念館まで維持運営していただいていることに対し感謝の念にたえません。津和野町では、町づくり、人づくり事業の一環として、鴎外先生の名前を使わせていただき、ふるさと津和野鴎外塾を設立し、先生の偉大な功績を継承するものです。今回の訪問団は、そういう意味から、まず先生の留学されたドイツの足跡を訪ね、記念館のあるベルリン市を訪問することになりました。記念館の存続に対して、遠くより心を傷めて参りましたが、できる限り援助、協力をさせていただきたい」と、挨拶した。
 
 現時点での問題点
 
 統一後、大学の予算は大幅に削減され、また家賃は2千マルクと3倍になり、大学の鴎外記念館への維持、運営費の負担は困難である。
 鴎外記念館が教育的施設、研究機関としての一面があり、営利に走れない面があり、入館料を取って観光ルートにのせるには少し無理がある。また、日本のように土地に対する投機のような発想はしない。旧東側の人の発言力が弱い傾向にあり、強引に要求できない面もある。
 以上のようなことが、話し合いの中で問題点として説明された。
 
 今後の方策
 
 森鴎外記念館の現地財団の設立が一番理想だと言う。そのためには、200万マルク以上(1億6千万円以上)は必要である。この件では、日本の企業が援助の手をさしのべる意向をもっている。
 大学が運営できない場合は、ベルリン市や文化局、中央区に存続してもらう方法がある。これらは、行政の当事者の理解を得る事が必要である。
 森鴎外記念館の建物の一階部分の部屋を買い取って、日本の紹介や津和野の紹介するコーナーにして、広い意味での日独友好センター的な位置づけにする等が考えられる。
 話し合いを進める内に、これは前途多難だなと思う。やはり教授は強く要求を関係機関にできないのかも知れない。強く出られない教授に対し、側のウェーバーさんの歯がゆそうな顔が対象的で印象的だった。
 このまま下がったら、何のためにドイツまで来たのか分からない。また、日本国内の大手企業数社も協力してくれることが分かっているので、市長や区長に直接交渉あるのみと、次の公式訪問に期待するも、やや不安がよぎる。早い時期に結論を出して、全国から集まった募金を、直接渡したいという気持ちがある。
 
 募金の1,564万7,000円はベルリン市へ
 
 鴎外記念館存続の募金は、現時点で全国から1千564万7千円が集まっている。募金は、東京の鴎外記念会から、外務省の国際交流基金を通じて、平成3年12月20日ベルリン市に贈られた。
 
 中央区長さんの決断
 
 午後からは、公式訪問が続くので礼服に着替えて出発した。まず、中央区長さんを訪問する。当日は休みの日にもかかわらず、ベンノ・ハッセ区長さんはお茶やお菓子を準備して待っていてくださった。区長さんは、統一後の直接選挙で選任された最初の区長さんで、西側の経済人(自動車関連会社の経営者)で、政治には今回初めて携わったと聞いた。そして、ベルリン市と中央区の位置づけについて詳しく話された。
 中島団長が「ドイツの詩人ゲーテにまさるとも劣らない、文豪であり医学者鴎外の功績は日本の誇りでもあります」と、話し始めた。通訳のノブコ・フーアマンさんは、日本人で鴎外の事が知識としてあったために、期待した以上の通訳が得られたことは確かである。
 「森鴎外記念館は、中央区が責任を持って対応する方がよいだろう。存続に向けて努力する」との答が市長さんより返ってきた。あまりにも即答すぎるので、一瞬あっけにとられ、通訳は本当かなと疑ったりしたが、次の話で納得、拍手したい心境になった。
 「これからは人的交流や文化の交流をする必要がある。津和野町と中央区との、姉妹都市としての交流も進めて行くべきだ」と、逆に向こうから提案されてしまった。姉妹都市としての交流がもう一つの目的にあるので、帰ってから忙しくなるぞと秘かに思う。予想以上の成果である。次は、ベルリン総市長にもう一押しだ。
 
 鴎外旧居の模型を贈呈
 
 今回のベルリンにおけるもう一つの目的が、広く鴎外と津和野を知ってもらい紹介することにある。日本文化を紹介する「ジャパンフェスティバル」の会場に展示した鴎外旧居の模型(15分の1)を終了後、中央区に寄贈したい旨、団長より区長さんに提案した。
 「大変有難い。模型は中央区で管理し、鴎外記念館の方に時期を見て展示するほうがいいだろう」と、快諾した。これを受けて、団長が「来年は森鴎外生誕130周年になります。どうぞ、津和野へのおいでをお待申し上げます」と、招待した。
 
 区長さんのユーモア
 
 会談後、区長さんと一緒にジャパン・フェスティバルの前夜祭会場に向かった。おりしも雨が降ってきた。青松団員が傘をさしかけると、区長さんは「いまさら雨を避けたところで、わたしの頭に毛は生えてきませんよ」と言って、ゆうゆうと雨の中を歩いて行った。そうです、区長さんの頭は大変によくひかり輝いていた。
 ドイツでは、雨の日でも余り傘をささず、濡れても平気なのだそうだ。そういえば、子供達も雨の中を傘をささずに通学していた。
 
 「津和野の皆さんようこそ」ベルリン総市長さんの挨拶
 
 ディープゲン・ベルリン総市長さんの歓迎パーティーがあり、津和野町は特別に団員全員の招待があった。特別に誂えたタキシードを着て、ドイツのパーティーを堪能する。招待者は和服や祭りの衣装ありで、なかなか華やかだ。しかし、勝手が違う。始まりの宣言はない。各自勝手にワインを口に持って行き、歓談している。ドイツのワインはうまい。そうしてあちこちの、団体と情報交換をしていると市長さんが、歓迎の挨拶に壇上に立たった。ハンサムな市長さんで、これなら多くの女性票が入って、選挙で苦労しないだろうなと思う。
 「日本の皆さんようこそ。特に、津和野の皆さんに御挨拶を申し上げます」第一声がこれだった。感激で胸が鳴る。血が走る。日本各地から500人の各団体の代表が集まっている会場で、津和野だけが名指しを受けて歓迎されるとは、一気に興奮した。
 「ベルリンには、森鴎外記念館があって、日独友好の懸け橋になっている。その津和野の皆さんの訪問に感謝します」と、締めくくりの挨拶が再度あった時には、団員から感嘆の声が上がった。同行した読売新聞の光尾記者と「やったで」と、ワインで乾杯する。糸賀団員が「津和野に帰って話しても信用せんが、ちゃんとビデオに撮ったるけえの」と、「橋本高明さんや山田仁通さんが一緒に来とったら、喜んだでや」と興奮している。友廣氏が「ドイツの人は、井戸を掘った人のことを忘れることはありません。橋本氏の行為は、彼らにはきっと分かってくれます」と、添えた。
 
 中島団長の度胸
 
 団長は、パーティー会場の壇上に上がり、津和野町長の親書を渡し、和紙の着め込み人形の土産を贈呈し「鴎外生誕の地から参りました。記念館の存続を市長さんのお力でよろしくお願いします。来年は、鴎外生誕130周年になります。この機会に是非、津和野へのご来町を町民あげてお待ち申し上げます」と、握手を求めて言った。団員は下から、うまいこと通じているかなと思うも、見守るだけ。しばらくして、顔を紅潮させて降りてきた団長が開口一番「市長さんが、存続を約束してくれた」と、団員に報告があった。団員の中ら「やった、やった」の歓声が上がる。光尾記者は、しつこく市長と通訳のやり取りを一言も聞き漏らすまいと、熱心にペンを走らせていた。「日本に帰ったら、東京の森鴎外記念会に報告に行かんといけんで」と、山岡団員と予定を立てる。
 ベルリン市の土産の2冊の本にサインを求めると、市長さんは快く応じてくれた。会場の隅で様子をうかがっていた、ベルント教授やウェーバーさんの安心した顔が目についた。今夜はホテルに帰って祝杯だ。
 
 ジャパン・フェスティバル
 
 9日、団員はテレビ塔の建っているアレクサンダー広場で開催されている、ジャパン・フェスティバルの会場で津和野町や鴎外の紹介をビデオでした。
 ジャパン・フェスティバルには関東から東京の火消し保存会や愛宕神社、各地の太鼓等日本古来の伝統芸を紹介しにきていた。また関西からは、真言宗高野山、なぎなた、華道、茶道、日本舞踊、三河漫才、獅子舞、太鼓等がやはり来ていた。中でも岡山県の日生甚九郎太鼓は町の観光宣伝に併せて、英訳したパンフレットに加え、太鼓の紹介のパンフレットを町長さん自ら配っていた。田原町長さんは47歳の若い町長さんで「日生町の伝統芸能であるこの太鼓を海外に紹介できることの意義は大きい。また、保存会の会員の志気の向上にもなる」と、参加した意気込みを話していた。後日、田原町長さんから写真や年賀状をいただいた。
  津和野にはさぎ舞があるが、来年あたりは参加してはどうだろうか。韓国では好評をはくしたようだが、ドイツでも拍手喝采になると思う。姉妹都市協定ができたなら、最高の友好大使だと思う。
 
団員に疲労の色が見えるので、少しゆっくりしよう、土産もそろそろ買いたい。そこで、団員には自由時間を取ろうということに団長と相談して決める。団長は、文化大臣主催のパーティーがあるので行動が別々になる。後は団長に任せることにしたが、副団長は団長に付添いである。ついて行くだけでパーティー会場にも入れてもらえない。
 「招待者が限られていたので、文化大臣とゆっくり話せた。理解を示してもらえてよかったいね」と、団長より報告があった。
 夜は、こちら日本側が主催のお返しパーティーがあり、副団長も出席できることになった。会場には、すでに顔なじみになった現地の方々に、団長と一緒にお礼を言って回った。すべての公式行事を、無事終えてほっと一息ついた。団長はお疲れさま。明日、明後日2日間は、ミュンヘンからハイデルベルグまでの観光が待っている。ロマンティック街道をゆっくり楽しみたい。
 
 これは困ったことですよ
 
 ドイツの水は硬水なので飲めない。炭酸入りのミネラルウォーターがある。これをガス入りと呼ぶが、慣れていないのでゲップが出てとても飲めない。薬を飲むのにとても困った。薬が口の中で泡をたてるので、水道水を死ぬ思いで飲んだ。さいわい下痢はしなかった。
 水が飲めないからと、ビールを飲む。飲めば催して来る。公衆便所を捜して走り込むと、そこには料金を徴収するおばさんがちゃんと待っている。金銭感覚がないから1マルクを渡して用を足す。すると、側によってきて色々サービスが始まる。最後には、手拭きまで出でくる。後で気が付くが、10円でいいのに80円も払ったことに気が付く。しまった。しかし、公衆便所はとてもきれいだ。
 
 もっと困ったことがある
 
 ドイツの男性は背が高いらしく、便器が日本より30センチくらい上にある。160センチ以下の人は届かない。団長が文化大臣主催のパーティーに出席している間、同行した友廣氏と二人で食事をした時のことだ。例によって、数本ビールを空けたのでトイレで一緒になった。友廣氏が「背が低いから困るんですよ」と、言って爪先だってしていた。
 
 さらに、もっと困った
 
 日程がかなりハードに組んであるので、自由時間がない。添乗員は融通がきかない。時間から時間に縛られて土産を買う暇がない。「後でゆっくり時間を取ります」これが嘘。その気でいたら、何にも買えなかった。空港の免税店で買えますと言っていたが、最後の日になって、時間は一時間しか取れませんという始末。団員は焦って買ったので、気に入った物が買えなかったという不満は残った。
 しかし、せっかく来たのだから子供にはこれ、女房にはブランドのバッグ、香水、ネッカチーフと親父にはウィスキー、ワイン、たばこでお袋には何でもいいや。近所にはあれとこれとという内に「時間ですよ」と、冷たい声。国内ならおいて行かれてもいいが、何しろ外国だから添乗員の方が強い。さすがに困った。
 
 油断もスキもない
 
 ベルリンのホテルでのことだ。ロビーの一角にブランド物を売る小さな売店がある。そこにいて、週刊誌を見ていたときのことだ。
ドイツでは、一般書店に売っている週刊誌のヌード写真は、日本とは違いヘアー丸出しであるから紳士諸君は立ち読みが嬉しい。鼻の下を長くして読みふけっていると、そばのご夫人が騒ぎだした。支払をするときに、免税商品なのでパスポートを店員に提示して、支払をしている時に、大切なパスポートをそのままバッグの上において数分の内に取られたのである。添乗員が飛んで来たり大騒ぎだった。話には聞いていたが、近くで起きるとは、ああ恐しや。足の下のバッグでさえなくなるという漫画みたいな話も、まんざら嘘ではない。この窃盗集団は恐い。これから海外に行かれる皆さん、充分注意をしてもらいたい。
 観光バスは禁食・禁煙が原則だ。だから、バスの中の掃除も乗客がする。特に禁煙、これが辛いのがいる。タバコが嫌いな運転手だったら絶対にダメ。また、観光バスの一番前の席には座れない。事故があったときに死亡率が高く、保険が効かないからだそうだ。
 
 自動車の話
 
 ドイツが統一して一番儲けたのは誰でしょう。答は、中古車販売会社だ。東ドイツの自動車は、トラバンテという国民大衆車車しかなく、これが恐ろしく前時代的遺品だ。白い色の排気ガスはたれ流し、2気筒エンジンで音が大きい、今はトラクターでさえ4気筒の時代だ。おまけにボディーはボール紙でできているというから、またびっくり。ボール紙に糊を混ぜて固くした物で、この車同士が交通事故をしたときは、周辺にボール紙が散乱しているような状態になるそうだ。
 そのため、統一後東ドイツの人は先を争って西ドイツの自動車を買いあさったそうで、ほくほく顔は中古車販売会社だけだったそうだ。
 ドイツ車といえば、なんと言ってもベンツ、BMW、アウディー、ワーゲン、オペルと日本でも人気の自動車ばかりが走っている。日本ではドイツ車はありがたがって乗っているのに、ドイツではタクシーだ。本当のドイツ車の良さは、高級車種でないと味わえないそうで、日本で五百万円程度で購入できるドイツの車は、タクシーみたいなものだそうで、そう有難がるほどのことではないそうだ。ただし、手作りの良さはドイツ車でないと味わえないということから人気があると言っていた。
 
 ショッピングの話
 
 ドイツは、革製品と刃物が有名である。革製品というとすぐイタリアを想像するが、耐久性やデザインでもすばらしいものがある。但し、高くてそう簡単には手が出ない。いいなと思うと10万円単位で、普通のバッグは20万円くらいする。が、何10年ともてるので年に割ったら安いのだそうだ。ドイツ式合理主義だ。壊れる前に飽きがくるのがドイツ製品といわれる理由がよく分かった。
 もう一つは刃物である。ゾーリンゲンの、双子のマークのヘンケルが有名なことは日本でもお馴染みである。団員が競って買ったから津和野町内に数百本のナイフや包丁、ハサミ、鼻毛切りが土産として配られたはずである。ただ、団員の不安はこのヘンケルの刃物が、はたして世界で一番であるということが分かってくれる人が何人いるかであった。
 後日、青松団員のお宅をおじゃました時に、玄関にかわいいカッコー時計がかけてあったが、これも黒い森地方の名産でドイツの土産の一つである。「ネジ巻式で一日半しかもてんから大変」とのことであった。
 忘れてならないのが、陶器である。特にビヤマグというフタつきのビールジョッキが記念品として最高であるが、壊れ易いので多くを持って帰れない。置物としても価値あるもので、土産にすると喜ばれる。
 万年筆のモンブランは有名で人気がある。しかし、1本が2万円以上するので、そうそう買えない恨みがある。いいものは高いというのが通り相場である。
 木彫り製品(クルミ割り人形)も有名で、山田仁通氏の土産にこれを買って帰った。早速クルミを割ろうとしたら壊れそうになったので、置物にしたそうだ。ドイツのクルミは柔らかく日本のクルミは固いからだそうで、決して安物を買ったからではない。
 通訳のノブコさんの家を訪問したとき、御主人が部屋の明りを消してローソクの灯りで歓迎してくれた。最高のもてなしだそうで、ドイツではほのかなローソクの灯りの中で静かに会話をするのが風習だそうだ。そんな訳で、絵ローソクも土産になっていた。
 税金が14%もかかり、悔しいやら歯がゆいやらで、日本の3%は安い方かな。
 空港や町中の免税店に行くと、世界各地の酒類、タバコ、香水、バッグ、衣類、ライター、革製品、電気製品、万年筆、チョコレート等なんでも揃っている。欲しいものばかりだが先立つものがないので、目の毒になっただけである。
 団員は寸暇の中で、家族や親戚、近所に土産を買っていた。帰国後、各自土産を配っていたが、どうしても不足したらしい。とうとう家族や子供が犠牲になったとのことである。なかには、糸賀団員のように帰ってから代用品(農産物)で済ませたら、それの方が喜ばれたという話も聞いた。
 
 ミュンヘンにて
 
 ビールで有名なミュンヘンに行くために、テーゲル空港にやってきた。ここから一時間ばかり南に向かって、オーストリアの国境近くにあるドイツ第三の都市がミュンヘンで、一九七二年オリンピックが開催された。また、名車BMWの本社があるところでもある。このBMWの由来は、Bはバイエルン州、Mはモーターかミュンヘン市、Wは?、忘れたがそれらの頭文字だそうだ。
 ミュンヘンに行ったら、ここには行きたいと思っていた所がある。それは、ビヤホールだ。ホーフブロイハウスという名のビヤホールは、収容人員3千人という大きなビヤホールで、ステージでは楽団が演奏をして歌や踊りを見せてくれる。行ったところが、ほとんど日本人、それもジャパンフェスティバルに参加した顔なじみばっかりだ。あちこちに日本人以外の団体がいるが、そこには日本人の若いミーハーねえちゃんが、たむろしてダンスをしたりしている。大和撫子も地に落ちた。
 ここのビールはアルコール3%(日本のビールは四〜五%)の薄いビールで、ジョッキは一リットル入りの大きな物で、3杯くらいは飲める。が、ここはツマミなしで飲むのでツマミがほしい。アルコールが薄いので安心して飲むと、下から出る。ここでは、立ちションはご発度、厳しい罰が待っているからガマン、ガマン。ホテルまでが長かったことは言うまでもない。
 
 これはいい制度です
 
 ドイツ国内では一部の地域を除いて、建物に厳しい規制があり、美しい街並を保存する法律がある。どこに行ってもゴシック建築の教会や門塔、壁、城塞が現存されており、圧倒される。
 ミュンヘンでは、中世紀の街並を保護し、後世にその街並を残すために、新しく建てた建築物(住宅、ビル等)に対して、美しい街並にあった建物には、表彰をすることになっている。そこで、表彰を受けるために競ってデザインを考え、この表彰を受けることが、ここに住む人の名誉にもなっている。それが、ここに住んでいる人の誇りであり、個人の利益の前に公共の福利が優先するという、風土が根づいている。津和野町もホープ計画が策定されたが、参考にしたいものだ。
 
 ビールの話
 
 ドイツはワインとビールが有名だ。飲んだところ、ワインは赤より白ワインがうまいと思うが、通でないのであてにならない。
 ビールはミュンヘンよりもフランクフルトの方が有名なのだそうだ。ドイツでは、ビールは各地にその地方独特の味のビールが造られているそうだ。ちなみに1,200社で、四千種の銘柄があるそうだ。これでは、日本の地酒と同じだ。
 1616年「ドイツビール純製法」が施行され、材料は水・酵母・ホップ・ビール麦以外の物は混ぜてはいけないと決まったそうだ。これは、ビール一本当りの値上げを防止し、本物の味を保つためで、そのために日本のように大手のビール会社で国内を牛耳ることはできないそうだ。
 ただし、2月と3月はアルコールを避ける風習があり、左党には受難の時期でもある。ついでに、ビールは労働者の飲物として、地位が低く日本での焼酎並かも。俗に液体のパンとも呼ばれている。皮肉なもので、ドイツの土産のひとつにビヤジョッキがある。
 
 こりゃあ やれんかった
 
 レストランにはいる。水とおしぼりがが出ない。
 ビールを注文しても出るまでに10分以上かかる、しかもビールが温い。日本ならすぐ出るので待つのがつらい。ビールをおいしく飲むこつは六度が適温だそうで、冷蔵庫に入れてガチガチに冷やしたのを飲みつけていると、温くて飲みにくい。また、早く出ない理由は、瓶ビールでなく樽出しなので、グラスに注ぐと泡が出るので、泡が消えるまで待ち、また入れ添えるを3回繰り返すので遅くなる。つまみなしで飲むのが、正しい飲み方だそうで、飲み屋はつまみでは儲らないかな。それにしても新丁が恋しい。
 
 うまかった
 
 なんといってもソーセージはうまかった。フランクフルト・ソーセージとして日本でも有名だ。その中でも、白い色のソーセージがあるが、これがお美味い。ボイルしたものが、日本人の舌に合う。また、生ハムもいい。それに、堅いが黒パンは噛むほどに味がでる。ネルトリンゲンで食べたカレーライスは、団員に評判がよかった。後で聞いた話では、ドイツのスキヤキなんだそうだ。具は鳥肉だったがキジ肉と聞いた。米は長粒米でパサパサしている。やはりご飯は、国産のコシヒカリに限る。しかし、ドイツの料理で感じることは、塩の辛いことだ。高血圧にならないのかなと思う。
 毎食、ほぼ同じものがでる。じゃがいもである。前菜に赤蕪の漬物。トマトのクリームスープ、魚のマス。とうとうタルタルステーキはでなかった。これらからみると、日本食は豊かといえる。通訳のノブコさんが言っていたが、日本ほど食卓におかずが並ぶことはないそうで、せいぜい3皿くらい、それもほぼ毎日同じ料理だそうだ。山村団員が、声を大にして「うちじゃったら、そりゃあこの前出た、3日前に食べた、とすぐ文句が出る」と言う。私も反省して、後方づけが簡単にできるように、ご飯に漬物、にしめにしよう。
 ロマンティック街道
 
 中世の都市を、そのままの姿で残している十二の都市を結ぶのがロマンティック街道だ。日程の都合で3カ所しか視察できなかったが、すばらしいの一語だ。18年前に一度来たことがあるが、当時と変わっていなかった。
 
 フュッセンはドイツアルプスの麓の街で、ここには有名なノイシュバンシュタイン城がある。別名白鳥城と呼ばれ、ディズニーランドのモデルになっている城で、日本では、ジグソーパズルで人気がある。ここは、一面雪が積もっていてとてもきれいだ。山の中腹にあるので2頭だての馬車で上がる。ここの城を造った国王はルードヴィッヒ二世で、この城を造るために借金をしすぎて財政破綻をしたそうだ。
しかしながら、後世での観光資源としての利用価値はおおいにある。
 
 アウグスブルグを横目でみてネルトリンゲンに向かう。ダニエルの塔を中心に、半径500メートルの中に街がある。周囲を塀で囲った街で入口はすべて門塔になっている、典型的な中世の都市だ。昼食をここで取った。カレーライスだった。
 
 ローデンブルグに着いた。ここもすごい。中世に街並がそのまま残っている。ここも周囲が壁で取り囲まれている。マルクト広場の仕掛時計と石畳はすばらしいの一言だ。
 「土産を買う時間がないから、ここで土産を買って下さい」と、添乗員の宮尾さんが言う。連れて行かれたところは、日本人が経営しているところだった。もう夕方だ。これから古城街道にはいることになる。
 
 古城街道
 
 ローデンブルグの街並を抜けると古城街道に出る。夕方だったのでよく見えなかったが、多くの古城がネッカー川の周囲にそそり立っている。その中でも、ハイデルベルグは津和野に似た街並の美しい都市だ。ハイデルベルグ城からみた町並みは本当に津和野に似ている。赤い屋根と川、橋、教会の尖塔は津和野城跡からみた景色にそっくりだ。
 
 野瀬さんという女性がホテルまで訪ねてみえた。そのまま一緒に市内観光をしたが、この地で津和野の人に会えるとは思いもよらなかった。野瀬さんは、森の佐伯さんの娘さんで、野瀬さんと結婚されてドイツに住んでいるとのことだ。御主人は、チェロ奏者で8年前に津和野で演奏会を開かれたことがある。ハイデルベルグの近くに住んでいるので面会にこられたのだそうだ。
 
 合言葉は「ヤー(Ja)」
 
 ドイツの言葉でよく知られているのが、ダンケシェーン(ありがとう)で、他はほとんで馴染みがなかった。ドイツに滞在すること3日間目くらいから、ダンケとかグーテンがスムーズに出るようになったが、団員の中からお互いに理解できたのは「ヤー」という言葉。日本語で、「はい」という意味で、何でもかんでも「ヤー、ヤー」の連発だ。津和野に帰ってもしばらくは「ヤー」がでる始末である。
 
 部長賞の栄誉を得る 読売新聞 光尾 豊 記者
 
 ベルリン3日目の朝である。
同行取材にきていた、読売新聞益田支局の光尾特派員が、「全国版の夕刊トップ記事じゃったいね」と、興奮している。「初めてトップ記事を書いた」と言う。何の事かは分からなかったが、ファックスのコピーを見ると、「森鴎外記念館の存続を約束」という見出しが目に入った。便利な世の中になったもので、即日日本にニュースとして流れる。朝刊は、社会面に載るらしい。家に帰ってみると、切り抜いて張ってあった。この記事を見て、「よかったと思った」と、妻の蔦子が言った。
 帰国後、11月21日から読売新聞の島根県版にドイツでの同行取材した記事が「ベルリン散歩」として連載された。うまい事書いてあるので、町民にもよく理解してもらえた事と思う。昨年の森鴎外記念館の存続から出発、同行取材、連載と多くの内容を広く掲載した読売新聞の太っ腹に敬意を表したい。
 たとえ小さな歩みでも、記事になり多くの人々に紹介できたことは、津和野町の宣伝はもとより今後理解と協力が得られることになる。マスコミは、揚げ足取りの記事や見込み記事を書くのでなく、その力を持ってその地域を育てて行くことも使命であり役割であると痛感させられた、今回の読売新聞社の姿勢である。
 
 反省会
 
 11月25日(月)、ドライブインにおいて、団員と企画財政課長、ルフトハンザ航空の友廣氏、光尾記者とで反省会を行い、写真の整理やビデオの編集をして報告会に備えた。
 スライドやビデオを見ながら、ああだこうだと言う話が出たが、一つだけそれらの中にないものがあった。それは、私のカンカン踊りのシーンである。ベルリンのホテルの近くに、ヨーロッパセンターというベンツのマークのかかった100メートルのビルがあり、そこの地下にマジックショーやいろいろなショーをしているビヤホールがある。人間が宙に浮くマジックなどを見せる。そのショーの中程の一コマで、カンカンダンスを見せた後、観客の男性3人をステージに上げて、カンカンダンスをさせる。前列近くの通路側に座っていたため、その3人の中の1人に私がなった。テレビのカトちゃんケンちゃんでおなじみのやつだったから、難なくこなしたが、ビールを飲み過ぎていたために大変であったし、冷汗ものだった。それをビデオに写さなかったから、帰って話の種が一つ減って残念であったということであった。
 
 大役を果して
 
 1年半前に、民間組織で手探り状態の中から始めた「ドイツ森鴎外記念館の存続」の募金活動が、この様な成果を得ることができるとは思いもよらなかった。
 海外には、多くの功績を残した日本人の記念館がある。中でも、イギリスの夏目漱石記念館やアフリカの野口英世記念館も、存続の危機になっていると聞いた。しかしながら、現時点では存続の運動が起きていると言う話は聞いていない。ベルリン市や中央区の寛大な決断に敬意を払うだけだ。
 
 今回の訪問団の中に、議会から募金活動に携わったということで、推薦いただいて訪問できたことはとても勉強になった。募金活動では、百の議論より小さな実行が、いかに大切かを知らされた。議員活動を行う上での教訓にしたい。このように具体的活動をすることは、リスクが伴うが、反面情報の発信を得ることができる事がよく分かった。
 また、海外に出て津和野を再発見できたことは大きい。国際交流は異文化の中で、相互交流、相互理解ができることが大きく、多くの町民の皆さんを、もっともっと海外に派遣できればすばらしいことだと思う。

姉妹都市の交流を


 人づくり事業は長い年月がかかるが、このような政策が一つくらいはあってもいいと思う。町民に衆知徹底して取り組むことが、こういうソフト事業を推進していくうえでの行政の務めでもある。町民あげて国際交流を促進し、ベルリン市中央区との姉妹都市の交流を推進したい。

 
佐賀県の陶器の町で有名な有田町は、すでにドイツのマイセン市と姉妹都市の協定を10年前から結んで活動しており、平成4年には日本各地の陶器の町と一緒になって「陶器サミット」を開催するという。津和野町では、3月22日に鴎外生誕130周年の「森鴎外展」を開催することになっているが、北九州市や横浜市、東京都(文京区)さらにベルリン市等鴎外ゆかりの都市を招いて開催してはどうだろうか。

 12月8日、町民センターにおいて帰国報告会を行った。団長の総括に始まり、団員の感想を全員が発表し、ビデオとスライドによる報告を約3時間にわたり60名の町民の前で行った。その後、解団式を行い事実上の活動停止である。但し、今後は団員全員がすべての分野に協力していくことは言うまでもないことである。おわりに、今回の派遣事業にご尽力いただいた各方面の方々に感謝し、また壮行式や出発式にご参列賜ったことに対しお礼を述べるとともに、団長はじめ団員の方々には副団長としての責務が果たせたどうか分からないが、ご協力により無事日程をこなし事故もなく帰られたことに感謝したい。
 この「ふるさと津和野鴎外塾」ならびに「津和野人づくり事業」が、大いに発展することを祈りつつ報告書とさせていただきたい。

あとがき


 12月5日、東京の森鴎外記念館に中島団長と山岡団員が報告に上京する。
 12月10日、わが家に一通のエアーメイルが届いた。ベルリンで通訳をしてくれたノブコさんから、クリスマスカードが贈られてきた。先般、お礼のしるしに和紙の木目込み人形を贈ったお礼だった。来年の11月には東京に帰るから、その時には津和野町に伺いますと書かれていた。
 12月20日には、野瀬さんから中島団長宛にクリスマスカードが送られてきた。ドイツでもクリスマスは盛大に祝うそうで、日本の正月と一緒である。そんな嬉しいことが続いた後、こんどは「ふるさと津和野鴎外塾」の塾長に、鴎外の孫の森 富(もり とむ 70歳)さんの就任の内定があった。平成4年3月22日」の開塾式は、最適任者の就任によって幸先のいいスタートがきれる。

 はからずも我々2名が、こういう形で出版できたことは、多くの友人諸先輩に恵まれ活動を一緒にしてきた人の輪があったからだと思う。なにぶんにも文才があるわけでもなく、また記憶違いや勘違い、我々の見ていないいろいろなことがあったと思う。それらは各団員の報告書(町広報)を読んでいただきたい。わずか8日間のドイツ訪問ですべてがわかったふりをするつもりは毛頭ない。われわれの小さな経験を多くの町民の方に知っていただいたらと重複したところもあるが、糸賀盛人、青木和憲の個性を出してわかりやすく書いたつもりだ。

 予算の関係で印刷部数を限定しました。この小冊子はわれわれのよき理解者である、あなたに謹呈させていただきます。御一読賜り。厳しく暖かいご批判をいただけますれば今後の活動の源とさせていただきます。
 なお、出版にあたり多くの方々にご助言を賜りましたことにつき、誌上より厚くお礼申し上げます。

 平成3年12月28日

 

出版を祝って

               「ふるさと津和野鴎外塾」ベルリン訪問研修団
                           団長   中島 巌
 (津和野町助役)

 町民の皆さんから広く意見を求め発足した、人づくり事業「ふるさと津和野鴎外塾創設」の一環として実施された、鴎外先生ゆかりの地ベルリンを中心とするドイツ訪問研修団の一行10名は、実りの多い8日間の旅程を終え全員事故なく帰国することができました。
 今回の訪独は、ジャパンフェスティバル・イン・ベルリン91への参加もあって、そのスケジュールに歩調を合わせる必要から、極めて短時日のうちに研修員の人選、出発というあわただしい運びとなりました。従って、参加された皆さんはもちろんのこと、関係の方々には準備その他で大変なご心配とご苦労をおかけいたしましたが、お陰様で所期の目的を十二分に達することができましたことをありがたく感謝しています。

 不肖、私は団長ということでご一緒に研修をさせていただきましたが、訪独の前後を通じ皆様方には大変お世話になりました。特に、青木さんには副団長という大役をお願いし、格別のお力添えをいただき、また糸賀さんには写真班(ビデオ撮影)の任務を持っていただく等、お二人には言葉に言い尽くせないお世話をおかけいたしました。改めて心から厚くお礼を申し上げます。
 帰国後、約束通り町民の皆様方へ報告会を開催し、その後それぞれにレポートを寄せ合って報告書を作成することにしていますが、青木さん、糸賀さんお二人にはいち早く独自の報告書「ドイツ8日間の旅」を出版されることになりました。とてもすばらしいことであり敬服の他ありません。この報告書は、やがて発刊されるレポート集を補完してあまりあるものがあると考えています。私は、この報告書のページをめくりながら訪独中の一時ひとときを感慨深く思い起こしております。
 それにしても、あの多忙なスケジュールの中でよくもまあいろいろと記録(記憶)して帰られたものだと感心しています。お二人はいずれも40代前半ですが、略歴に示すとおりそのキャリアは抜群、常に衆目を集めているところです。
 私も日頃昵懇に願い、何かとご指導をいただいていますが行動をともにして改めて感じることは実にその若さです。そして貪欲なまでに旺盛な知識欲です。これらについては感嘆の他ありません。
訪独中も寸暇を惜しんで市内を駆け巡り精力的に研修に努めておられました。限られた日程ではありましたが、それぞれに得られた体験、広められた見聞などの成果はきっと町づくりに生かしていただけるものと大いに期待しております。
 なお、今回の訪問研修で私たちがもっとも大きい課題としてきましたベルリンにおける森鴎外記念館存続問題については、その後同記念館のベルント館長さんからその運営方針が決定されたとの朗報の親書をいただきました。これによりますと、ベルリン州において森鴎外記念館財団法人設立の手続きが開始されたとのことであります。このことは、橋本高明氏を中心としてお二人が昨年来積極的に取り組んでこられた募金活動や関係機関への働きかけ、そして今回の訪独で団員の皆さんとともに現地行政府等に対し懸命に存続要請されたその努力が報いられたものでありまことに同慶に耐えません。
 皆さんと喜びを分かち合いながら、お二人の更なるご活躍を祈念し本書出版をお祝いする言葉といたします。

    平成4年1月8日

筆者

糸賀 盛人
    昭和23年2月19日生まれ。
    昭和41年 島根県立益田産業高校園芸科卒。
    農事組合法人「おくがの村」代表。
    津和野町農協理事。
    島根県農政審議委員。
    元島根県農業改良青年会議会長。(昭和50年)
    長男善人が後継者として益田農林高校を今春卒業予定。
    妻と長男、長女、二男、両親の7人家族。
    島根県鹿足郡津和野町中山・奥ヶ野


青木 和憲
    昭和26年10月3日生まれ。
    昭和45年 島根県立益田農林高校卒。
    津和野町議会議員。
    元島根県農協青年連盟委員長。
    妻と長男、二男、長女、両親の7人家族。
    島根県鹿足郡津和野町寺田・上千原

                                  ドイツ8日間の旅

                            発行日 平成4年1月10日
                            著者・編集者・発行者・写真共
                                         糸賀盛人
                                         青木和憲  共著
                            印刷・製本  坂田印刷所(津和野町後田)