子供の頃(小学〜中学)の遊びあれこれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
私は戦後のベビーブームに生まれ、俗に言う団塊の世代である。今のこどもたちとあまりにも違う。我々の子供の頃の遊びの一部を思いだしてみる。
私の地区には当時6人の男の子供がいた、4歳年上のSさんは決してガキ大将ではなく良きリーダーで、彼からは数々のことを教わった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
雪解けの頃、近くの竹やぶに地区の子供が連れ立って竹やぶに出かける。釣り竿を作るためである。
このとき持参するのは折りたたみナイフ「肥後守」である。このナイフは誰もが持っていた。鉛筆を削るために、買ってもらった物であるのだが、草を切り倒し、木を削って刀を作り、竹を切り弓を作ったりと、本来の目的に使用されることは少なかった。
 釣り竿用の竹は、ハヤ釣り用は穂先の柔らかいのがいい、セイサク(ギギ)釣り用は少し硬い方がいい、これはアユ用だとか、節と節の間は近いほうがいいとか、おもいおもいに適当な竹を探す。
 数本切って持ちかえり焚き火であぶる。曲がりを直し、油を抜く、また最後に砂でこすると白くきれいな仕上げになる。これは大人達がやっているのを見てするまねである。これで3月になるとヒラメ(ヤマメ)、ハヤ6月はアユ、増水すればミミズを餌にセイサク(ギギ)、うなぎなどを釣りに行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 フジの花が咲くとウナギが釣れると言われ、この頃になると「ツケバリ」をする。これは村内でも地区によって少しづつ変わっていた。
長いロープにハリスをつけるはえ縄タイプ、これは「ナゲナワ」とか「ナガナワ」と呼ばれていた。私の地区は少し上流で川幅も狭い。1Kgほどの細長い石に仕掛けを結んで沈めておく方法が主だった。いずれも方法も餌はゴリが一番いい。ゴリは30センチほどの細い棒(竹)に縫い針を縛り付け、これでゴリの頭を突き刺して取るのだ。結構集中力が要る。学校から帰ると直ぐにゴリを取り、夕方つける(仕掛けを入れるのをそう言った)。
 楽しみで夜はなかなか寝つけないこともあった。10数本(そう数えた)つけた場所は頭の中で全部再現でき、ウナギが餌に食いつく様子もイメージできた。
次の朝は早く目がさめる。わらゾウリをはいて出かける。ゾウリはコケのついた石を踏んでも滑りにくいからだ。水は冷たいが直ぐになれる。
そっとのぞくとS字型の黒いものが見えた時、「ヤッター!」と思わず声が出る。ちょうど友達も仕掛けを上げに来ていたりすると、大きく持ち上げて自慢する。これが逆だと悔しい。
 一度食いつき逃げられることも良くあった。糸や針にねばねばした白いものが付着していた。さぞ大きなウナギだっただろうと思いこれも悔しい。
 獲物はウナギ、セイサク(ギギ)、大きなイダ(ウグイ)たまに大きなゴギ(降海型?)も釣れたが、何も釣れないときも多かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある時期よく鳥を飼った。春は瓦の下にスズメが巣を作る。瓦を剥がしスズメの子をとり、みんなで分けて持ちかえり飼うのだ。
木箱に金網を取りつけて飼育箱にした。まだ赤子で餌を求めるような時期にとると良く馴れたが、首をすくめるようになってから捕るとなかなか馴れない。数日の差でそうなるから不思議だ、親が教えるのだと思った。
 同級生の中に恐ろしく木登りのうまいヤツがいた。学校の帰りに見つけておいたカラスの子をとりに行った。高い赤松のてっぺんに巣をかけていた。
松の木は滑り、登りにくいが彼はその木に登った。それは下から見ても恐ろしかった。「もうちょっと!その枝、そこだ!」、下からみんなで応援した。
親カラスは騒いで鳴き出し、飛びまわり彼を威嚇していた。彼はてっぺんにたどり着き、5匹のカラスの赤子をポケットに入れて降りてきた。
みんなで分けて持ち帰り育てた。名前は「クロ」だ。小魚が主な餌だったが、何でも良く食べ、いつかスプーンまで飲み込んでしまったことがあった。
 カラスはよくなついたが悪さをするのには本当に困った。よその家のタワシ、石鹸などよくもって帰ったり、障子に穴を横一列に開けるなどいたずらはエスカレートした。近くにアユ釣りに来たおじいさんの肩に止まり遊ぶ、おじいさんは「不吉だ!」と家に帰って寝たと言う話しも聞いた。とうとうこのカラスは、ほしいと言う同級生にあげたが、友人もすぐにクロのいたずらにあきれた様子だった。
そのほかにホオジロ、トンビ、フクロウ、ジョウビタキ、カワガラス、ツグミ、カケスなども飼った。
  ウグイスの巣もよく見つけた。ウグイスの親は餌を持って巣に帰るとき、巣から離れた所から笹薮に入り、巣にたどり着く、餌を与えると今度は巣から飛び出してくるのだ。飛び立ったあたりを探せば巣を簡単に見つけることができた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夏休みが近づくと水中銃を作る。ピストルの形に板を切り15cmほどのこうもりガサから取ったパイプを針金で縛りつける。これにゴムをつけ、引き金を引くとモリが飛び出す仕掛けだ。
 夏休みに入ると朝から川に行く。水中眼鏡で石の下をのぞき水中銃でしとめる。ハヤ、イダ(ウグイ)、ボンコツ(ドンコ)たまにアユなどが主な獲物となる。時折50pほどのイダも獲れた。とった魚は流木を集た焚き火で飯ごう飯をつくり、よく焼いた石の上で魚を焼く、結構うまかった。石に焦げ付いたも剥がして食った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 中学生くらいになると「ゲンコツ」でアユを取る。名前の由来は分からないが、おそらくは水中眼鏡を使用してするこの漁は規則違反で、見つかるとしかられる。そのとき受けるゲンコツからきているのだろうか?、名前の由来は今だにわからない。
 これは長さ2m太さは2cm先は鉛筆ていどの竿を青竹で作る。竿の先端は少し反っているものが良いとされた。大きな針に1mほどの糸をつけ、斜めに削いだ竿先から入れる。10cmはいったところにある穴から糸を引き出し、糸の先10cmほどのところに抜け出さないように小さな布切れつける。糸を引き針を引きこんだ位置に切れこみをいれて糸先をはめ込んでゲンコツ竿は完成。竿先の針を魚にかけると、止めてある糸が外れ縛り付けてある布切れが竿先の穴の位置で止まる。
 このゲンコツ竿の使用法はコツがある。淵などで水中に潜りアユを追う。竿は針が下向きになるように持ち、片方の手でアユを追う。アユの特性なのだろうか、逃げていてもくるっと反対に引き返す。このとき竿の下を通過するのを狙って竿を引く、言うのは簡単だがタイミングはかなり難しい。
大人の名人になると潜るたびに魚がかかっていた。腹や頭あたりに針が掛かると魚が弱るから、尻尾のあたりを狙うのだとか、中には一度もぐって「先ず一匹を口にくわえ、竿をセットしてもう一匹とって上がる」、そんな名人もいると聞いた。
 大人達は砂煙をあげてジープが上がってくると「ジープがあがった〜」と叫び一斉に竿を隠した。ヤブに投げ込むもの、川底に沈めて石で浮かないようにするものなど、見ていて滑稽だった。「な〜んじゃ、土木のジープじゃなぁか、タマガス(驚かす)」と言ってまたはじめた。その頃警察署のパトロールはジープだった。駐在さんは自転車でのパトロールだったが、これは仲間的な存在だったようだ。ブリキ缶のいけすはアユでいっぱいになると止めた。
 子供はせいぜい5〜6匹程度でとればいいほうだった。 私はどうもこの漁法は苦手で、この技術はついに習得できなかった。もっぱら石のそばで動きの止まった魚をこれで狙うのがほとんどだった。 今でもこの技を引き継ぎ、細々と技を温存しているものもいると聞く。(^_^;)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
秋は実りの時期、よくアケビを取りに山に入った。細い枝先まで登り、アケビのツルを引きよせながらもぎ取る。やっと大きいのを手にして見れば、中身は鳥に食べられて無いことがよくあった。どれくらいの糖度があるものか知らないが、アケビはそうとう甘かったように思う。
両手いっぱいに持ち食べながら、そして種はみんなでプップップッっと撒き散らし、飛距離を競いながら帰った。
 そのころ農家は農閑期には炭を焼いていた。そのためあちこちに山道があり、これらは格好の遊び場になりよく探検をした。山野を走り回るとのどが乾く、この頃ナツハゼは黒く熟して食べごろ、甘酸っぱい実を食べると不思議にのどの渇きがおさまる。
 山に数ある野生の栗は小さな実を沢山の落す。「シバグリ」と言っていたこの栗は甘みが大きい。あちこちのポケットいっぱいに拾って帰ると母に喜ばれた。これは干して渋皮を剥ぎ、あんこ餅のアンに混ぜられた。
 里の柿がなくなると川沿いや山に小さな実の渋柿が残る。落葉のあとの柿はオレンジ色で良く目立つ、これは「サルクワズ」と言って渋い。
漬物に入れたらいい、焼いたらいいとか言われていたが、どうやっても渋みは取れない。これが霜が降り木枯らしが吹く頃になると、赤く色付き渋みがなくなる。学校の帰りなどにこれを良く食べたが、夜になって必ず腹痛に悩まされた。なぜだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 刈り取りの終わった田んぼではよくソフトボールをした。私はこれはあまり好きではなかったが、人数が少なく仕方なく付き合った。
今思えば一チームたったの3人、いったいどうやっていたのだろうと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 パチンコも必需品で、山などでパチンコに適した木を見つけるとナイフで切り取った。左右大対象に都合良く枝の出ている木はめったになかった。
これにタイヤのチュウブを一センチ幅ほどに切り、玉を乗せるところは革製品を切り取り使用する。ポケットいっぱいに小石を入れて、みんなでやたら何でも標的にした。鳥も良く狙ったが、2回しか当たった記憶がない。最初は屋根の棟にとまっていたセキレイだった。
玉が少しカーブしながら、セキレイに吸いこまれるように飛んだ。ポコッと鈍い音がして、屋根の向こう側セキレイがに消えた。なぜか今も記憶に残っている。
家の裏に走っていくとセキレイはすでに息絶えていた。かわいそうで川原に埋め墓を作った。
 もう一つはシジュウガラだ、山を歩いていて、シジュウガラの群れに出会った。何気なく撃ったのが運悪く当たってしまった。
食べようかと思ったが、あまりにも小さすぎやめた。これも穴を掘って埋め、悪いことをしたなと思った。でも獲物に遭遇すると、また狙わずにはいられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 冬休みが近づくと竹スキー作りが始まる。最初は大人に作ってもらっていたが、皆自分で作るようになる。竹を長さ約1m幅5センチほどに削り、中央付近を火であぶりL字型に曲げる。節の削り方も重要で、滑りがずいぶん違った。
垂直の部分は少し削って握りやすくする。これでスキーは完成、使い方は実に簡単、L字の底辺に足を乗せ、直の部分を持ってすべるのだ。
家近くの適当な斜面の雪を踏み固めればスキー場となる。到達距離を競ったり、難しいコースを滑りきるなどの技を競ったりしたものである。
 中学生になるとスキーは少し変わった。足の幅ほどの板に3枚の竹を釘で打ちつける。前と後にも幅の狭い板を置き、竹板を釘止めする。
先端20センチほどのところを火でアブって曲げ、先を3本まとめて針金で縛る。あとは中央の板に自転車のタイヤを切って長靴が入るように釘で横から打ち付ければ完成である。 びしょ濡れになるとこたつにもぐりこんで乾かすのだが、炭火の強力なこたつは温かくなるとなぜか尻がかゆくなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 鳥を獲る罠もよく作った。これはみんなで作ることもあったが、やはり秘密の場所に一人で作った。止まり木に鳥が止まると、引き曲げたた木が弾く、この力を利用して止まり木の上から押さえ棒が落ちてくる仕掛けだ。これに餌として取っておいたハゼの実を置く。これは最初のうちはほとんど取れなかったが、鳥が餌を食べるときの習性を見つけ、これを利用することで罠にかかるようになった。
鳥はあたりを警戒しながら高い所から降りてきて餌をついばみ、少し高い枝に止まって回りを警戒し、また降りて餌をついばむ。つまり餌は罠の止まり木より少し低い位置に置くほうがいいのだ。止まり木に止まって餌を食うようにと思っても、そうはいかないのだ。この餌の置き方の工夫で獲れる数は著しく増えた。
 雪が降ると餌が少なくなり、ツグミ、トラツグミ、ヒヨドリなどがよく取れた。取れた獲物は直ぐに毛をむしり料理した。背割りにして内臓を取り出し、砂糖醤油をつけてしちりんで焼いた。当時は肉と言えば、冬季に近所でたまにもらうイノシシの肉か、自宅で飼っている鶏くらいなもの、貴重なタンパク源でもあった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 鳥もちでも小鳥を捕った。鳥もちは初夏にモチのの採れる木(ヤマグルマ)の皮を剥ぎ池などに浸けて腐らす。これをウスに入れて杵でつくのだ。粘りが出てくると流水でもみ洗いする。洗いながら皮のコルク質を流すとトリモチが残る。これを水を入れた壷に入れて冬まで保存しておく。

 
冬、餌が無くなる頃、ハゼの実の付いた枝にトリモチを巻いておくと小鳥がよく獲れた。屋根の棟に置けばスズメも獲れた。スズメは一番おいしかった。
 メジロなどもトリモチで捕ったが、これは飼育するためで食用ではない。上手なヤツは口笛でメジロを呼び寄せた。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 毎日、勉強もしないで本当に良く遊んだが、当時の子供はみんな似たようなものだった?と思う。中学は7kmの距離を自転車で通ったが、その日の内に自転車の荷台から、カバンが下ろされ家に持ち込むことはなく、すぐに遊びに行った。翌朝弁当と教科書の入れ替えのためにだけに家に持ち込む、そんな日々だった。大阪から来た叔母は母に「あれで大丈夫なのか?」と聞いていたが、当時は何が違うのかわからなかった。
トップに戻る