額々岩・ガクガク岩探索
   
 額々岩はこの周辺町市ではよく知られた山である。町村合併により吉賀町となったこの地方は古くから「吉賀」と呼ばれていた。
その吉賀の唯一の歴史書に「吉賀記」があるが、その中から額々岩に付いての記述。

吉賀四境の事として東端 額々岩
「河津村奥御領境石藝防三國の境則津濱廣萩四領の境なり平石聳々として何れの國よりも境かと問えばうなずく故がくがく岩といふ
(吉賀記写本の一つによる)
 
 国土地理院の地形図によると、寂地山の北北西約600mに額々山とある三角点がある。
かつて一度、寂地峡から寂地山を経由し行ったことがあるのだが、ここがガクガク岩かと思っていたが、これは大きな間違いで「東よけ岩」と言われている。このことは「西中国山地」(桑原良敏氏)や森林管理署(旧営林署)、また各ホームページ上でも紹介されている。
  自分の足で歩き、この目で見て確かめたいという思いは調べる毎に強くなる。またこの地の伝説、旧跡にも興味がある。
安全確実に最短時間で到達できるルート、ガクガク岩、その稜線の状況 、藩界尾根を確認するためのルートはほぼ決まった。
一度計画したが天候不順で中止となった。十年も前なら一人ででも挑戦するところだが、今は体力気力も衰えそんな気にはなれない。計画していた知人も都合が悪かったり、連絡が付かなかったりでとりあえず一人で偵察をと思い、2012年8月30日出かける。
出かけてまもなく連絡の付かなかった知人から電話があり、急きょ一緒に行くことになった。


 六日市より県道16号線を県境の初見地区へ、ここから島根県と山口県の県境でもある深谷渓谷、これに沿った道をどんどん入ってゆく。
渓谷は神秘的である。約4.6kmほど入った所に金山谷の集落がある。道路左を50mばかり登ったところには木地師の妻の墓がある。菊の紋のある墓は吉賀町の文化財にも指定されている。ここは木地師の里であり、また地名からわかるように鉱山がありその技術集団も住んでいたのだろう。

 
小さな川の対岸(左岸)は山口県、とぎれとぎれに山口県側にも道があり、人家が点在する。更に2.3kmほど入ると「湯舟」とも「馬舟」とも言われる伝説のある岩の凹みがある。
 歴史
崎所(さきのせ)大明神記の一部より (六日市町史)
ある時、この重氏の庭へ不思議な竜馬が飛来し、前足を折って礼をしたので、重氏は之これを飼って乗馬とした。この竜馬に乗って飛ぶときには主人の思うままに、自由自在に行くことの出来る名馬であった。後のに天皇がこれを聞きし召されて、重氏にその馬を献上するよう御宣旨が度々あったが、この竜馬を 惜しんで奉らなかった。よって長男小五郎重行を召され、終に人質となったが、尚献上しないので三カ年の後、この小五郎重行を京都四条河原で誅された。
これより先、重氏は自分がここに居る為こんなにも勅命が重いのだろうと、我から所在を隠そうとして周防国玖珂郡の山家明と言う所へこもられた。後にこの隠里から竜馬に乗って北の宇佐の丘に駆けのぼり、はるかに東方を見れば雲気血煙の様である。これは正しく長子重行が京都に於いて殺された兆しであろうと感じた。
そこで、そこで忽この宇佐山から竜馬に乗って下河津に飛んで下りたところ、天罰であったかこの竜馬は滑り、滝の所へハッと伏せた。やっとの事で引き立て、馬舟とも湯舟とも言う岩間の水で鼻を洗い冷やしてやるとまた上河津へ二十町ばかり飛んで信田が尾鼻と言うところで、梅の枯れ木で胸をつき死んだ。そこに馬塚がある。
以下省略
 

 
   
湯舟とも馬舟とも言われる岩の凹み。
   
途中長瀬峡の一枚岩の谷底
 
    
 深谷から入ること約9.3kmの所から山口県側に渡る。島根県側の道は1.4kmも行くと行き止まりになる。
山口県側に入り奥へと入って行くと、感動的とも言える景観が続く、川底から路面までの高さは1m足らずの所もある。一枚岩の川底、澄み透り底まで見える渕、樹木、道路以外は全て自然のまま、一度は伐られたはずなのだが、それを感じさせない回復力を感じる。
2kmほども入っただろうか、対岸にある御堂(後に判明)らしき建物、格子越しに中を見ると像が何体か安置されている。社殿の傍には四角い標柱が建っている。かすれて読みにくい文字は「五葉の松、石楠花自生地」と書かれている。あたりを見廻してみたが、石楠花も五葉の松も見あたらなかった。 
 
   
谷向こうの樹林下にたたずむ御堂、御大師様が祀られている。
(河津住人の先々代が信心深く、ここに建立したのだと聞いた

林道は谷沿いに続く、清流と美しい渓谷林は癒しの空間でもある。
    
  河津の橋から3.3kmほどはいると橋があり、車はこれ以上進めない。ここに駐車しておく。
橋の位置を測位する。N34°27'48.6" E132°02’25.0" 、国土地理院の地図とは少しずれているようだ。
装備をととのえかつての作業道跡を入っていく。水害で流された所も多い。岩は濡れていて滑りやすい。


赤線は今回のGPSのトラッキングデータ(同行S氏提供)を地図上に落とした軌跡。
 
   三本の流れになって流れる小さな滝。
   
一度伐採された後とは思えない自然。
 
   
本谷からカネホリ谷に入って見られたカリガネソウ。
   
ほぼ同じ場所でソバナ、他にテンニンソウ、ミヤマシグレなど。
 
 
   40分ほども歩いただろうか、予定の登り口と思われる沢が現れる。「西中国山地」桑原氏の言う「カネホリ谷」に間違いない。ピンクのテープがあちこちにあるが、作業歩道を示すものだろう。沢は二つに分かれるが右の沢の方へ印は続く。ここであらかじめ歩道をカシミールに記し、それをGPS にアップロードしたルートに一致する。間違いないと確信する。11:22再確認、N34°28'12.0" E132°02'25.0" 異常なし。途中から造林地に変わり数年前に間伐したらしい。このような場所は歩きにくい。自由な方向に倒された間伐材は乗り越えるのに体力も時間も消耗する。12:05標高は1000mを少し越えている。昼食にする。
  
 
   
N34°28'28.55" E132°02'37.67"標高1227m直下の岩壁。
これが額々岩か?
   
N34°28'26.9"E132°02'47.80"
三つ岩
 
   
ガクガク岩
   
別の方から見たガクガク岩
 
 
 N34°28'28.3" E132°02'53.8"、 幅2m長さ3mほどの楕円状の岩が重なっている。これがガクガク岩と思われる。ガクガク岩を訪ねた者なら誰もが行うであろう動作を試みる。岩の上に上がり足を開き左右にゆすってみる。何度か試してみるが動かない。動いても不思議ではないが動かなかった、コツがあるのかも知れない。
確かにガクガク岩はこの岩の事だろう。帰宅後カシミール、グーグルアース等に位置を落としてみたが、藩の境であるほどの尾根はこの下に存在しない。吉賀記の額々岩ではない。

   石見国と周防(すおう)国の境でもある尾根は、登ってくる途中からの尾根で間違いないのだろう。「西中国山地」桑原氏も藩界尾根と記している。現在もこの尾根が森林管理署の林班境(97林班と98林班)となっている。
その昔、関係者が立ち会ったとき、誰もがここが境で間違いないとうなずいたのもその通りであろう。

 よく考えてみれば「吉賀記」にもガクガク動く岩が境とは記されていない。ここが境だと言えば誰もがなっとくして「うんうん」とうなずき首を縦に振る。ゆえに額々岩とある。つまり境の額々岩はN34°28'28.55" E132°02'37.67"標高1227m直下の岩壁を言う事になる。「平石聳々として・・云々」は尾根を登ってきてその岩の下から見れば平らな巨岩が聳(そび)える様を言ったのだろう。
 また吉賀記では河津村のところで「額々岩 津濱藝防四領境名石也何れの國よりも境かと問ばうなつく様に見ゆる故斯云ふ也」ともある。この記述では岩が動く様を言うようにもとれる。 

 個人的な結論を言うと、額々岩と岩がうなずくが如く岩が動くというのは別の話なのだろう。ガクガク動く岩と境界の岩の距離は実に直線距離で400m以上も離れている。
藩の境のピークは誰もがうなずく額々岩で、ガクガク岩は岩そのものがガクガク動く岩ということだろう。

 1862年4月、津和野藩主 亀井茲藍(かめいこれみ)は吉賀視察の折、およそ30人のお供を連れ額々岩迄お越しの記録もある。藩主は藩の東境界を確認したのか、それとも他藩にあるガクガク動く岩を観にいったのだろうか?

 「あそこに2枚重なった岩があり、動かせばガクガクと動くぞ」。そんな話が伝わっていくあいだに、430mの距離は無くなっても不思議ではない。ここは誰でも容易に訪れられる場所ではなのだから・・・。
または勝手に私が勘違いしていただけのことかも知れない

 
 
オオバクロモジにウロコフシタマバエが寄生してできた虫コブ。まるで蕾のようだ。
 
寂地山へ続く稜線、かつて馬道があったと言う。

 
 
    それにしてもこの稜線はなだらかである。崎所大明神記で言う重氏は、「隠里から竜馬に乗って北の宇佐の丘に駆けのぼり」、つまり今言う小五郎山、右谷山、寂地山それらから続く稜線は馬で通ることが可能だったのだろう。また各地の木地師達の連絡道だったと聴くが、まさにその通りだろう。稜線を経由すれば、入り込んだ下界の道よりはるかに短時間で移動できるだろう。途中の尾根を降りれば、各地の木地師へアクセスできる。

 帰りは森林管理署に勤めておられたS氏に教えてもらったルートで下山することにする。
下山予定の尾根は96林班と97林班の尾根、その途中いくつもの巨岩、またその中にはガクガク岩のように重なった岩も見られた。
  
 
 
板状の層になった岩、まるで櫓のよう。
 
あちこちで見かけたナベワリソウ。
 
 
下山途中木立の間から見えた岩壁。
N34°28'25.61" E132°02'23.94"付近
 
同じ場所から見えた藩界尾根、97-98林班界のピーク(1227m)
 
 
 下山する尾根にもあちこちにテープがまかれ、これに沿って下れば間違いないと考えていたが、降りたところは予定の場所から200mほど上流だった。たぶん他にもテープがあったのだろう。下山時は一歩方向を間違え進むと、とんでもないことになるのはなにも今回に限ったことでもない

16:19 駐車した車に到着  本日の行程 水平距離5.88km、沿面距離6.44km
  
 
  河津集落散策   
     
   河津地区にある祠、側面に飾ってあるシャモジはは木地師が奉納したものだという。    馬塚崎所大明神記の言う重氏の馬がここで息絶えたという。
 
     
   重氏をまつった由緒ある崎所(さきのせ)大明神
   金山谷集落にある、菊の紋のある木地師の妻の墓(町文化財)。  
         
 
 集落散策
帰りに立ち寄った河津の集落、民家の庭にある社、木地師が奉納したというシャモジが掲げてある。当地方の木地師はシャモジなどを制作し宮島に運んだ。

崎所(さきのせ)大明神記の言う馬塚を探したがわからず、地元の人の案内で今回やっと草に隠れたそれを見ることが出来た。

上左画像は崎所大明神(河津)と上右は菊の紋のある木地師の妻の墓(金山谷)

この地は木地師平家の落人、金山谷やカネホリ谷の地名からうかがえる朝鮮系採鉱冶金伝承(六日町史1巻記載)、他伝説と興味は尽きない。
金山谷は地名が示すように、かつて鉱山があった。小五郎山山頂近くには路頭堀や坑道採掘した跡が残っている。
製錬された金属は寂地山系の尾根に続く道で他の地に運ばれたのだと言う。