那智大権現跡・権現笹探索

当地方の古書「吉賀記」に権現笹と言われる笹の記述がある。その中で吉賀の七不思議として「附権現笹 熊笹ニテ葉シゲシ余リニナキ目出度笹なり」と追加附記されている
(八不思議?)
  また、那智大権現のところでも「権現笹此山に生る熊笹に似たり葉繁く餘笹に異れり」とある。
これは、現在朝倉地区にある那智神社、この旧社殿跡に自生するという笹で権現笹と呼ばれている。

 
那智大権現旧社殿に生えていたという権現笹とはいったいどんな笹なのか?そんな思いが強くなる。(悪い癖でもある)

 また、この旧社殿跡を1985年3月27日、当地の人たちが探査した記録が「三郷の川辺」と言う郷土誌に記録されている。
三郷の川辺より引用)
 岩淵山旧社殿跡へ社殿跡探索のため、雑木に覆われた参道伝いに急坂を登ること30分、岩縁に生えていて丈は70糎〜80 糎、幹の直径は5粍〜7粍の笹にて、節の所より1pばかりの短柄を出し、 一節に5〜6枚の葉を出している奇妙な笹である。

 参考:那智権現についての由緒・沿革 (六日市町史第2巻より)
 本社は、元新熊野宮とか那智大権現と称し、天平12年(西暦740年)宮司の祖先、寺戸与五郎丸太夫が紀伊国熊野権現を勧請奉仕せしを紀元とす。爾来((じらい)以来の意味)氏子崇敬者はもとより国司、領主の崇敬も深く、社殿の造営修理又は社録を賜り、ことに羽間氏・吉見氏・亀井氏の崇敬殊に厚く参拝にも度々来られたとあり。当社はもと朝倉院身の岩淵山に鎮座されていた。しかし催巍険阻(さいかいけんそ)鬱樹(うつじゅ)天を蔽(おお)うて老人婦女子の登攀(とうはん)容易ならず。又、神社の施設に困難であったので、大正四年四月十五日当社の御旅所地であり、縁故の地である現在地に遷御(せんぎょ)された。  現在は那智神社と呼ばれているが、これは明治維新の権現号停止以来はもっぱら那智神社ととなえている。

那智権現の旧社殿跡の場所については、まず宮司さんに聞けば判ると考えたが、どなたなのか名前も判らない。そこで以前名刺を頂いていた奇鹿神社の宮司である渡邉氏に電話をしてみる。那智神社の宮司、寺戸氏は御高齢とかで吉中氏を紹介していただく。吉中氏も30年前に訪れた記憶でよくわからないと、寺土氏を紹介していただく、さらに寺戸氏からは吉村氏を紹介して頂き、吉村氏からはさらに津田氏を紹介して頂いた。津田氏は那智大権現旧社殿跡に一番近い所に住んで居られ、詳しい説明を聞くことが出来ました。
 快く親切に応対して頂いた皆様には本当に感謝しています。ありがとうございました。


上の地図は吉賀町朝倉付近のもので、その旧社殿跡の位置とその参道跡(赤線)などを示しています。
 2013年6月23日情報収集、できれば探査したいと考え現地に行く。上の地図上にある本覚寺跡の石碑、この広場に駐車した。  寺跡の上流方向にある水門の開閉ハンドル、ここから入っていく。
 竹林を入るとすぐに現れてくる石畳の参道跡?ここは蓼野に続く旧道が川に沿ってあり間違えやすいが、参道は小谷になっている。
 現在では水が流れ、石張りの谷に見えるが、おそらく参道であり、谷が土砂で埋まりここを水が流れているのだろう。
 石畳の参道?を60〜70mも登っていくと左手に折れ、尾根をジグザグに折り返し、上へと上がっている。思ったほどヤブは茂っておらず、時折葛を切る程度で十分歩ける。

 「催巍険阻鬱樹天を蔽うて老人婦女子の登攀容易ならず」とあるが、当時は空を覆い隠す原生の森の中を登る道だったのだろう。

 左の画像は尾根をジグザグに登っていく参道跡を黄色の線で示したもので、当時の道幅は1m以上ある立派な参道だったに違いない。


 左画の黄色の破線のように、何度も折り返しながら本殿へと参詣道は続いている。

 本覚寺跡から那智大権現旧社殿跡までの所要時間は25分もかからなかった。思った以上に簡単に到達することが出来た。
 那智権現旧社殿跡と思われる場所に到着、2段になった社殿跡は計ったわけではないが、約300uほどだろうか、想像した以上に開けている。中央に本殿に登る石段があったのだろうが、土に覆われて段数も確認出来ないが、おそらく四段ほどの石段があるのだろう。
 中央の階段の跡の左側にある石積み、幅は約3mほど、奥行きは約1.5m高さは約1mほどに上段に入り込み積まれている。いったいどんな役目の場所だったのか想像できない。
 上段のおそらく御神体の鎮座した本殿の跡だろう。GPSは北緯34度22分32.23秒、東経131度53分22.98秒を示す。よく見ると本殿の基礎石が整然と並んでいるのが確認できる。
 
 上段の社殿跡を右横から見たところ、岩盤を削り整地したことがよくわかる。よくも手作業だけでこれだけの岩盤を取り除いたと感心する。

 この場所に生えているという権現笹を探してみる。丈は70糎〜80 糎、幹の直径は5粍〜7粍の笹にて、節の所より1pばかりの短柄を出し、 一節に5〜6枚の葉を出している。この条件に合う笹を探したところ、二株のそれらしい笹を発見した。本殿跡の上部岩盤の上も調べてみたが、そこには何もなく、二株のみが絶滅寸前の状態にあると感じた。
下の画像がその様子。

 本殿跡にあったもので、2〜3本がやっと生えているという感じで生育している。生育環境の条件が非常に悪いことがうかがえる。
 本殿跡後ろの切り取られた岩盤部分に生えているもの。ここも5〜6本がやっと生えていると言う感じだ。

 図鑑で調べてみると、「オカメザサ」という品種と思われる。正しくは竹の仲間だそうだ。日本原産で自生地ははっきり確認できないが、現在では植栽されてあちこちにあり、現在では特に珍しいというわけでもないようだ。
 竹と笹との違いは、タケノコの時の皮が落ちるか落ちないかで区別されている。笹はいつまでも皮が節の上に残り、竹は落ちて無くなる。オカメザサは落ちて無くなることから竹の仲間であり、竹としては日本最小のものらしい。この竹は生け垣などに使われることもあるという。
 名前の由来は東京の神社の祭りの時、この笹にオカメの面を付けて売っていたことから、そう呼ばれるようになったのだそうだ。名前の由来としては当地で呼ばれている「権現笹」の方がはるかに古いのだろう。

 この笹と思われるものが私の住む集落内に生育していることが判った。場所は吉賀町柿木村福川の松原地区で、河内様という小さな祠のある森である。
この笹、信仰と何か関係あるのか、偶然なのかは不明だ。
 勝手な想像にすぎないが、勧請された熊野権現に自生生育していたのではないだろうか。そこからいつの時代かは不明だが移植されたのではないか?少なくとも西暦1799年(吉賀記が書かれた)以前にそこにあったのである。 

 

以下は、我が家の近くにある鎮守の森に生育している権現笹(オカメザサ)についての記録です。
孟宗竹林の中に権現笹と同じものが生育している。背丈は高いものは1.5m程になる。 それぞれの節から4〜5枚の葉を付けている。
 それぞれの節から1pで2つの節のある枝があり、そこから葉柄があり、葉がついている。   このようにしなやかで曲げに強いことから、籠等を編む材料にも使われたのかも知れない

後日、隣町の集落のはずれでもこの「竹」を見かけたが、かつて祠などがありそこに何かが奉られていたのかも知れない。
・・・・・2013年6月・・・・・