亀田の水穴
吉賀町史跡文化財に指定     

 吉賀町柿木村福川の亀田地区に山をくりぬいた水穴がある。これは合併前の柿木村に引き続き、現在吉賀町の史跡文化財に指定されている。

 この地は水利が悪く、近くの亀ヶ谷川をさかのぼったところに堰をもうけ、その水を2kmもの水路で水を引いて水田を耕作していた。粘土でつくられた水路は漏水が多く、十分な水を供給できないばかりか、手間のかかるこの管理・補修に頭を痛めていた。

 江戸時代の初め今の愛媛県の鉱山師、羽生太郎左衛門がこの地を訪れ、その苦労話を聞き、「これは山をくりぬいて水を引くのが最良の方法だ」と諭した。多額の費用がかかるこの工事費、津和野の豪商だった青江安左衛門に資金を借りることになった。こころよく資金を貸してくれ、寛永年間(年代不詳)工事に着工、正保二年(1645年)2月18日(旧暦)に完成した。

 谷川を堰き止め引き込まれた水は幅80cm高さ80cmの水穴へと吸い込まれていく。(右画像→


出口から見た内部の様子

出口
 全長60mほどの水穴は両方から掘られた。貫通した箇所で左右のずれはなかったが、上下には少しずれているようだ。これは測量誤差によるズレ、特に下流側が誤差で高くならないように意識的にずらしたものだと考られます。その段差のため穴の近くに行くと、ゴーという音を聞くことができます。
上画像は出口からのぞいた内部と出口附近。

 また、作業は穴の中で火をを焚いて岩盤を熱し、水をかけて砕けやすくしてノミで掘ったと言われているがこれは疑問である。小さな穴の奥で火を焚くことは換気、高熱などの問題があり不可能に思われるからです。他の文献によるとこの程度の穴(銀鉱山等)で一日に1尺(約30.3p)掘り進んだとの記述も見られる。

 座った姿勢で根気よく堅い岩盤に立ち向う意外に方法はなく、その苦労が改めて想像されます。
この工事の成功は近隣へも大きな影響を与え、小規模な岩盤のくりぬきは各地で行われたようです。

 このようにして引いた水は新たに開墾され、三町歩の水田を耕作するのに十分な水量となり、毎年豊かな恵みがもたらされるようになった。また近年まで生活用水としても利用されていたのは言うまでもない。
ところで快く金を貸してくれた青江安右衛門は、他のことで不都合の廉(かど)ありと御家断絶となり、礼を言うところも負債を返済する所もなくなったということである。

しかし、亀田地区の人々は羽生・青江の両氏の恩を永久に忘れまいと近くに神社を造り祀り、現在では毎年新暦の3月18日全戸全員集まり祭典を行い、地区の共同墓地にある両氏の墓へ参り、その後当屋において直会(なおらい)が行われている。

この直会の時の料理には、この時期採れるワサビの葉の漬け物、スイバの二菜を出したと言うことです。今日ではたくさんのご馳走が出されるが、今でもこの二菜は必ず料理に添えられると言う。


羽生・青江両氏の墓
 鉱山師、羽生太郎左衛門はその後亀田に住みつき1662年に死去。

 資金を出してくれた青江安左衛門の墓は、不運にして死んだ青江氏の霊を弔いたいと、この地に1679年に建てたと言われている。

 360年以上もそれらの人たちに感謝する気持ちを忘れない亀田地区の人々、現在は水穴から流れ出る恵みの清水で、有機農業を熱心に行っている人々でもあります。


(左画像は水穴出口近くにある羽生・青江両氏の祀られている河内神社


 水穴とは無関係ではあるが、亀田人々に親しまれている、地名の由来となった「亀石」。

また当地方の古書「吉賀記」には
 福川枝郷亀田 亀石とて亀に似たる石あり是より名発る。こんな記述も見られる。