柿木村のたたら
「たたら」とは和式の製鉄方法で、日本でのはじまりは古墳時代だと言われている。砂鉄を原料に多量の木炭を使用して行われた。これらの創業には砂鉄の運搬木炭の生産、粗鉄の製造、鍛錬する鍛冶など各種あり、それらに従事する集団は家族を含むと、一集団130〜600人ほどの人数で、山林の豊富な中国山地を移動しながら行われた。一回の創業で使用する木炭は10トン以上にもなり、森林面積の関係でそれら集団の滞在期間は、3年から6年ほどでさほど長くはなかった。創業が山間地で行われたのは、一般に2トンの鉄を得るのに必要な砂鉄の量は6トン、木炭の量は10トン必要だと言われ、かさばる木炭を運ぶよりも砂鉄を運ぶ方が楽だったからと言われている。

森林の豊富なここ柿木村でも、摺屋谷で1711年で最初に行われたのをはじめ、九領谷、細尾谷、月瀬谷、日の迫、柿木長崎谷、黒瀬山、福川長崎谷、古江堂、繁山谷、鈴の大谷、入江山などで行われた。それらの地には今でも、砂鉄溶解時にでる不純物「カナクソ」(鉄滓)が見られる。

当時の砂鉄は主に津和野藩領の井野村(浜田藩の中にあった津和野藩の飛び地で今の那賀郡三隅町)で採取され、海上輸送で高津へ運ばれ、ここから川舟で柿木へ運ばれ、さらに人の背や、馬の背でたたらへと運ばれた。

この内の一つ古江堂森田のえきの炉と思われるものが、平成元年に工事現場で見つかった。この場所は中河内地区から県道123号線を750m入ったところ、現在では田んぼから道路までの斜面になっている個所である。近くの住人に聞いた限りでは、この場所が「森田のえき」と言う地名は聞くことができなかったが、「こ鍛冶屋原」の地名は近くに残っていた。
この炉について柿木村誌によると、享保14年(1729年)今の那賀郡三隅町の庄屋、三浦治右衛門が炉をつけたとあり、「森田溢の鈩跡遺跡」とされている。


県道123号線を中河内から古江堂方向に入ってきた場所。砂防工事の残土捨て場としていた田んぼの下から、赤く焼けや構造物が出てきた。ポールの立っている所がその場所。ここから30mばかり離れた道路右側では、カナクソ(鉄滓)が多量捨てられている場所がある。
古いコンクリート構造物と思い、重機で掘削すると現れた炉の地下構造の一部、幅0.8mセンチ高さ1m奥行き5mほどのトンネルの形をした窯、内部の壁はは高温で焼けていた。左側2mはなれたところ(日陰になっている個所)にも同じものがある。右側にも赤く焼けた土が見えたが、トンネル構造のものがあったかは不明。
下に記した左右2対の小船を持つ構造だった可能性も残る。

まさに、この場所に高殿(
たかどの)と言われる大きな建物が建ち、炉が築かれふいごがあり、多量の炭、砂鉄が置かれ操業された場所なのです。

白線は小舟と炉の位置関係想像図

20p〜30p大の石は構造物の一部と思われる。

(概略図)


このトンネル状の窯は「小船」と呼ばれるもので、その役割について問い合わせた結果、日立金属株式会社コミュニケーション室から次のような回答をいただいた。

たたらの炉において、地下に逃げる熱量は想像以上のもので、炉の温度を高温に保つため、炉の下には大規模な地下構造を持っている。その一部「小船」は中でマキを燃やして、地下構造内を乾燥させた後空洞として残し、空気断熱により炉の保温効果を高めるための、重要な役割を負っているものだそうです。中には左右2対の小船や、上下2段の小船を有するものも存在したそうです。
炉の温度は製品の品質に大きく影響が出るようで、炉から地面への放熱を防ぐことは重要だったようです。


現地で採取した「カナクソ」と呼ばれている鉄滓(てっさい)。砂鉄を溶解すると比重の違いにより、上に浮いてくる不純物で、炉に開けた小穴から随時取り出していた。同じ大きさの石と比較して少し重く感じるが、磁石を近づけても反応はなく鉄分は無いことがわかる。
谷を隔てた平地には、たたらに従事していた人の墓石と言われ、苔むした自然石の柱は笹藪の中にひっそりと建っている。その数はざっと数えても30柱以上にもなり、付近にはまだあるものと考えられる。短期間の創業(一説では4年間の創業だったと言われる)でこれだけの死者があったのは、たたらの労働がいかに過酷だったかを物語るものではないだろうか。

 

 

 


最後に
柿木村には10数カ所のたたら跡があるが、他はいずれも鉄滓が地表に現れているだけである。
炉は毎回取り壊されるので存在するはずもなく、このように炉の下にある地下構造物が見つかったのは初めてで貴重な遺跡でしょう。小舟も3つあったように思われ、当時としては高度な技術により作られたのではないかと思い、確認しなかったのは残念です。遺跡は丁寧に埋め戻され現在道路敷き、圃場法面となっている。
(場所 N34°22′38″E131°48′00″付近 WGS 84)

参考文献:柿木村誌