島根県鹿足郡吉賀町柿木村と六日市町が合併して吉賀町となったが、往古よりこの地は吉賀と呼ばれていた。この地名の由来は複数ある。葦の茂る所から付いたという説など・・、ここでは広く言われている「悪鹿伝説」による地名由来をとりあげてみる。
「吉賀記」、尾崎太左衛門著の吉賀地方唯一の歴史書でもある。 (その写本の一つより抜粋

 文武天皇の御宇鎭西筑紫に悪鹿横行す其の異れる事八足八畔にて赤毛尺餘に過眼は両鏡の如く毫底に輝き口裂けて箕の如し龍虎に似て天を翔り地を走り禽獣を食し人を殽ふ号して八畔鹿といふ鹿民惧れて農事を止む
幾ならずして達 歔闌因て藤原為實藤原為方乃両郷へ猛獣退治の 宣告を下し賜ふ則ち北面の強士江熊太郎相具し速に進發あり深山幽谷を追猟す時に小倉を渉り防長を越して彼邉部鹿野庄を過石見の奥吉賀庄鹿足河内大鹿山に馳籠の彼山の西面三つ岩に蟠留す太郎屈せず田少(現立戸)金五郎名に迫り毒箭を発せしかばあやまたずして悪鹿に中る直ちに飛龍の貌を顯はし江熊を目掛けて金五郎名に落るを二の矢にて射留たり此鹿八荒の央獸にて忽ち四方に雲霧を覆ひ天地震動す此悪機に觸れて江熊も倒死す因て防の山口藤乃両郷へ挙訴悪鹿遺骸を曳き出す時に両郷向真日に馳向かい悪鹿の形勢を點し烈卒の名目を記し件の悪鹿墳土に埋べしとなり直に八畔の角を落し骸骨を此方の田畔に封ず(此の鹿の古墳後人七福神に祝祭又悪鹿解きたる跡を骸崩といふ
又両郷悪鹿を描せしめ名目を記し餘れる墨を此方の瀧に流す今墨流しとてなとなと瀧黒し又柚の木の本にて悪鹿を解く因て後世此所に柚の木不生といへり)郷民訴を挙げ強士江熊太郎霊を神祭荒人明神と祝(金五郎岩あり)又鹿霊を神に祝祭す(立戸田中に一社則大明神といふ)(現在は立戸八幡宮に合祀)加之八畔の角社納すと云ふ件の悪鹿を殺し魂を神に祀の郷民祈るに霊験新也因て
悪鹿を賀して吉賀と号し荘名となる 鹿足河内大鹿山大岡山と書くも是より起る

 要約すると、文武天皇(西暦697年~西暦707年)の頃、現在の福岡県あたりに悪鹿が出現。奇形で八足角は八つに分かれていた。この鹿の毛は赤く30㎝ほどもあったという。口は穀物を入れたり選別に使用する箕(み)のようだと言う。天を駆け地を走り鶏(鳥?)、動物を食い(鹿は草食のはず?)、人をも殺したと言う。そのため農作業もできなかった。天皇の命により江熊太郎がこの猛獣退治を始めた。

 猛獣は追跡を逃れ小倉から山口県に逃げ、さらに鹿野を通りこの地に入り、大岡山の麓三つ岩に留まった。
江熊太郎は立戸の金五郎岩まで迫り毒矢を放った。悪鹿に矢が当たるとその本性を現し、江熊めがけて襲いかかってきたのを二の矢で射止めた。
するとにわかに霧が立ちこめ天地が震動した。この悪機に触れ江熊太郎はその場に倒れ死んだ。
役所に報告し悪鹿の遺骸は引き出され、今の月和田に運ばれその形態を写生し解体した。その解体した場所を「骸崩」(からだくずし)と言い、解体するのに柚の木に引っかけて解体したので、以来、柚の木は育たないという。(大明神記には悪鹿は月和田まで逃げそこで絶命したともある)

 江熊太郎は荒神明神として祀られ鹿の霊も立戸の田んぼの中に大明神として祀られた。
悪鹿のたたりを恐れ良い鹿、良を吉とし鹿を賀
(めでたい出来事祝う意味)にあらため「吉賀」とし、この地方の名前となった。

以下は伝説の地を尋ねた記録です。
三つ岩:北緯34度22分15.0秒 東経131度55分23.9秒付近
金五郎岩:北緯34度22分28.6秒 東経131度55分03.9秒付近
吉賀町立戸及び広石付近
(国土地理院地図より)
小倉から逃げてきた悪鹿はここに留まった。国道187号線付近から見た大岡山と三つ岩の位置
三つ岩か?、このあたり巨岩が多く特定できなかった。かつては草刈り場で遠くからでもよく見えたそうだ。

荒神明神社跡と金五郎岩荒神明神は立戸八幡宮に合祀されている。金五郎岩は80㎝×100㎝ほどで上面が平らな石、画面中央の石。
 立戸の田んぼの中にあった小さな社(大明神)も立戸八幡宮に合祀された。大明神跡はグロとして残っていたが、近年の圃場整備により取り払われた。画像の赤い点が大明神跡のグロのあったところを示す。  その大明神にその奇形なる八畔鹿の角があったが、現在立戸八幡宮に社宝として祀られている。(六日町文化財審議会編集の吉賀記より)
 荒神社跡近くにある石塚(左)、山伏の墓と言うが刀が埋まっていたと言う言い伝えがある。江熊太郎の墓でなないかとも言われている。

 吉賀町七日市の月和田地区にある骸崩(からだくずし)と、奇鹿神社の位置を示す。骸崩:北緯34度23分19.6秒 東経131度52分49.2秒付近。
 骸崩(からだくずし):悪鹿はここで解体され埋められ七福神として祀られている。現在でも祭典が行われている。

 大岡山に掛かる朝霧だが、これに雷鳴が轟けば「雲霧覆い天地震動す」となるのかも知れない。

 ふと気がつくと大岡山の山塊が目に飛び込んできた。骸崩(からだくずし)から見える大岡山。


 奇鹿神社(明治までは鹿大明神と言われていた)大同元年(西歴806年)悪鹿の祟りを恐れ祀られる。ここにも悪鹿の角がとして祀られている。
 荒神明神・大明神が合祀されている立戸八幡宮  明治まで社殿に掛かっていた「鹿大明神」の額(奇鹿神社)
 後日岩国への用に合わせて錦川沿いの地名を探してみた。
吉賀大明神記の言う彼の角二頭残し置き其外角と絵図共に其時直に帰京有し、此時防州玖珂郡南桑に而日昏〆詮方なく大川傍に野陣す。反固之件の角大川辺の松ノ枝に懸け其元に宿す。奇妙不思議なる哉彼の松に終夜龍燈不消昼の如く、ゆえに此所龍燈松と言う龍燈渕と言う両名有、南桑より一里下天尾と言う所、此時より大歳夜節分夜後世まで、不絶龍燈かがやくと俗説残り

錦川のこのあたりは両岸は渓谷の様相を呈している。道もあっただろうが主に交通は船で行われたに違いない。南桑で日没になり下の画のような河原で夜を明かしたとあるが、南桑と龍燈渕、龍燈渕、龍燈松の位置関係の記述がよくわからない。龍燈松はあるはずもないが天尾に「松ヶ原」と言う集落はあった。龍燈渕は今回聞き出すことは出来なかったがあるいは南桑近くなのかも知れない(又の機会に再調査)。
現在は岩国市天尾(てんのお)、ここを流れる錦川だけでも6km以上の長さになるになる。 南桑地区から4.5km下流、龍燈渕はこのあたりではないだろうか?下流の橋は二鹿橋
あとがき
 悪鹿伝説については私自身疑っていたが、現在でも残っている地名、他を現地を歩き見聞きした感じでは、誇張されている部分があるとは言え、それに近い事実があったと思わざるを得ない。

 2012年10月14日に行われた、エコビレッジかきのきむら主催のワークショップ「忘れられた吉賀の記憶を求めて」で、講演された歴史考証家の高山宗東氏の現地での説明によると。荒神明神跡、そこにある金五郎岩など祭典に使われる石として「実に良い形」と言うことだった。荒神明神の社があり、その前にこの石(金五郎岩)を置いてある風景をイメージし熱く語っておられた。余談になるがこの地区は「金五郎」と言う名の地区だそうだ。 また、骸崩で行われた解体方法も柚の木に吊るし、廻りを囲って行うやり方、画像にある2本のケヤキの木、これも当時の物では無いかも知れないが、重要な意味を持つのだと言う。つまり儀式で用いられる「」を表しているのだそうだ。それらが伝えられていることがすばらしい事で感銘をうけた、と氏は言われていた。

参考文献:吉賀記・吉賀大明神記