徳城峠を歩いてみた!   
  ( このサイト「柿木あれこれ」とはあまり関係ないかもしれないが・・ -_-    
   参照文献 日原町史・津和野百景図  
  2015/06/09 作成   
 

 「徳城の峠(とくじょうのたお)」、この峠はかつて日原町史でこの峠を知り興味を持ち行ってみたいと思っていた。
近年、津和野郷土館の発行した「津和野百景図」、これは栗本格齋が幕末の津和野藩内を描いたもので、この中に「八十八 徳丈の峠」として描かれているのを見つけその思いが強くなった。格齋は「徳城」を「徳丈」としているが、聞いた言葉を思いつく文字にあてたのだろうか?
 2015年5月9日、買い物に出かける途中、その登り口だけでも知ることができればと、国道9号線から柳方面に立ち寄った。青柳地区の手前で「徳城往還」の説明板を見つけ、その入り口も難なく見つけることができた。少し入ってみようと連れの家内は車に残し歩き始めた。「こりゃぁすごい!」と思いながら、入って行きとうとう峠を越え小瀬に降りた。その後携帯で車を回してもらい買い物を済ませたが、カメラも持参せず後悔、再度訪れることになった。

 

 徳城往還は津和野から浜田への本往還で、津和野城下から千原・岩瀬戸を通り樫ノ実峠を超えて商人から宿谷へおり、鬼ヶ峠を通ってここから徳城峠を超え、青原から添谷へ渡り、三星から横田梅月を通って扇原の関門から浜田領へ入っていた。


 津和野藩主は高津の人丸(人麻呂)社へ参詣して帰りには青原から駕籠でこの峠を超えていた。
 また1811年2月、伊能忠敬一行の測量隊もこの道を越して行った。


 この往還は人馬の往来も多く、頂上には駕籠立(駕籠を据えて休むところ)や茶屋があり、晴れた日は高津沖の白波や帆掛け舟も見えて、すばらしい風景でした。また、ここの茶屋では蓮葉糖(ほうらいとう)と言う名物の菓子を売っていた。 
(現地説明板・日原町史参照)



 右の画像マップは2015年6月6日、柳から小瀬へと歩いたGPSの軌跡を、国土地理院の地図上に描いたもので赤線区間の距離は約2.8km。

  
 
      
     国道9号線青原付近の富田洞門北側付近から、柳川に沿ってさかのぼること約2.8km、この三叉路に説明看板がありわかりやすい。

マウスポインターを画像に置くと別画像になります
 
 この往還の往復は団塊の世代にはきつい、一台の車(軽トラ)はすでに小瀬に駐車してある。

 GPSをON 、今回はこのルートの軌跡を録ることも目的の一つだ。

 2015年6月6日 09:02出発
 
 
     歩き始めてすぐの往還の様子。あちこちの往還にこだわり歩いているが、これほどしっかりと残っている往還は初めてだ。地元の人たちの努力によるものだろう。

 新緑の木漏れ日の中、小鳥のさえずりも聞こえ快適。

 
 
     途中で見かけたのは電柱の切り倒した跡、先ほど電線を取り付けるガイシも見かけた。
イノシシが体をすりつけたのだろうか、電柱は土で汚れている。

 これは下山したときに年配夫婦から聞いた話では、電気は奥地にある笹ヶ谷鉱山から徐々に下流域集落に引かれたのだという。多くの並行して流れる支流の集落へ送られる山越え送電線の跡なのだろう。
 
     10分程歩いた所で見かけた湿地、かつては水田だったのだろう。ミクリが茂り、樹上にはモリアオガエルの卵の産み付けられている泡が数個見られる。 このような水田跡と見られる湿地は、この後も道沿いに続いた。  
     ここも水田の跡なのだろう。今は樹木に覆われているが、かつては日当たりもよく落ち葉などの肥料も豊富で良田だったと思われる。  
     水田と思われる湿地がなくなり、道のそばに広い溝のようなくぼみ、溝にしては広く深い。右側の山の斜面に比べ、明らかに掘りこんだように急になっている。
 写真右側はこのルートで最高峰の山頂に続く 、徳城の名の通り城があったのだろうか?
 この山の城についてはあらかじめ町史で探してみたが、徳城という名前の城の存在は記述されてなかった。
 私には城を守る壕に見えてならない。


 
     往還の標高最高部あたりだろう。津和野郷土館発行の「津和野百景図」でみる現在の様子の写真はこの場所。   
     徳城茶屋跡の標柱、この標柱から約20m程入った所に約20m四方程の平地がある。そこに茶屋があったのではないかと思う。 

 左説明板から登るとすぐ稜線になる。ここに駕籠立てがあり駕籠据え台として石垣があったという。藩主が領内視察の折には必ず此所で休んだといい、藩主の駕籠を据える台は特に立派なものだったという。

駕籠据え台の石垣らしい物を探してみたが、それらしいものは見当たらなかった。


マウスポインターを画像に置くと別画像になります。

 
     この標柱の後方1m の所で見つけた湯飲み?、これは土中にあったものらしく土が入っていた。おそらくイノシシが土を掘り返した際に出てきたと思われる。
 この陶器の上部の幅は60mm高さは45mmで、少し小さめの湯飲みと言った感じがする。

 ここの茶屋で使われていた物ではないかと思うが定かではない。格齋の描いた「徳丈の峠」の説明文では「道路改造ありて此所を通行する人稀なり」とあり、別の道が開かれ、往来が少なくなるとともに茶屋もなくなったのだろう。

 この陶器については町文化財担当者に連絡済み。


マウスポインターを画像に置くと別画像になります。
 
     栗本格齋の描いた「徳丈の 峠(たお)」見晴らしのいい場所で北に高島の浮かぶ日本海、南には青野山が見られ絶景だったという。
 ここの茶屋ではわらび粉(セン)を原料にして外郎(ういろう)のような菓子「蓬萊糖(ほうらいとう)
が名物として売られていた。

 蓬萊糖(ほうらいとう)の蓬はヨモギと言う文字、ヨモギの入った外郎のような菓子だったのだろうか?
 試しにインターネットで蓬莱糖を検索してみると、出てくるがヨモギとは無関係のものが多く、全く別の物もある。 う~ん!?


左画は津和野百景図より
 
     峠を過ぎ小瀬側に下ると道は広くなり、道幅3mほどもあるのではないかと思うところがある。木材搬出用の林道でもあったのかと思うほど、しかしこの道勾配とヘアピンカーブはそれを否定できる。   
      小瀬側にある徳城往還の説明板だろう。湿気が多いのか朽ち落ちている。

 ここから支流大木川にかかる幅1mほどの橋を渡ると道路にでる。国道9号線はすぐ近くを通る。
 
    小瀬に降りたところで畑で作業されている年配のご夫婦を見かけたので話を聞いてみた。作業の手を止め話して頂いたことを要約して書くと・・・
 電柱は奥の笹ヶ谷鉱山の方から次第に電気が引かれて、このあたり(小瀬)は最後だった。
 茶屋跡近くにあったという駕籠立て台は確かにあったという。奥さんの話でも小学校の遠足で行ったときにも見たそうで、それはここ(小瀬から)登ると峠の右上にあったという。また、峠の茶屋で売られていた菓子は「ほうらいとう」という名前で、セン(ワラビから取り出したデンプン)で作っていたのだそうだ。
 峠より小瀬側は道幅が特に広いが林道があったのではと聞いたところと、昔からの道のままとであることなど、多くの貴重なお話を聞くことができた。
 
 10:52 回送しておいた軽トラックに乗り柳地区へ向かう。