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胡蝶之眠
 
 
 

 胡蝶之夢、という話がある。
 自分が、蝶になる夢を見ていた人間だったのか、それとも、人間になる夢を見ていた蝶だったのか、わからなくなる、という、いわゆる変容を説いたお話である。

 彼、十壱もまた、同じような感覚でいるのかもしれない。
 雪政は、苦虫を噛み潰したような、引きつった笑顔で、そう思った。

          

 秋も深まった頃、古書の店・行灯堂の店主雪政は、商談のため地方に出かけ、三日ほど店を留守にした。
 その間、出掛けに携帯電話を、帰りがけにスリッパを買って帰途に着いた。
 携帯電話は商売をやっているため必要性にかられての買い物だが、スリッパは、物持ちの良い彼がさすがに今使っているものは限界だと悟って、珍しく買い換えたものである。

 彼の物持ちの良さは、半端ではない。持ち物の中には、使用歴50年を越えるものがざらにある。
 しかし、どの品も本当に愛情を持って丁寧に扱っているので、ほとんどの物が古びはしていても、くたびれて貧相な感じにはなっていない。
 スリッパも同様に大事に扱ってきたのだが、いかんせん履物だ。傷をつけないで使用するのにも限界がある。
 さすがに、前部分がパックリ口を開けていては、もう買い換えるしかないだろう。
 別に執着心が強いから、物持ちが良いのではない。
 単に品物をきちんと使い切ろうとしているだけのことだ。
 それだけの寿命が、それらにはあるのだから。
 使い捨ての風潮が目立つ現在では、付喪神にまでなれる器物は、まずほとんど無い。雪政がそれだけ丁寧に扱っている物たちでも、そうなるものはまれである。
 器物に意志があるなしで、物を大事にしようと思うわけではなく、ただ単にきちんと使おう、と思うだけのことだ。
 雪政は、(これとも長く付き合えたらいいな)と思いつつ、明るいオレンジ色のスリッパを選んだ。

 店の方は、当然休業中の看板を掲げておいたので、何を心配するでもないが。

 ──きっと今頃、家中の、好きなところで挟まっているんだろうな…。

 雪政は、小人のようなおのが主人の姿を思い浮かべた。
 そして、眉間にしわを寄せると、無意識に帰る足を早めた。
 急いで帰らないと、またとんでもない所に、ご主人が挟まっているかもしれない。
 確信に似た予感が、彼の足を競歩のように早めさせ、すれ違う人をギョッとさせた。

 

 雪政が自らの主人として従う(面倒を見ている)十壱は、小動物のごとく、物の間などの狭いところに挟まったり、よっかかったりするのが、大好きである。
 全部を覆われるのは嫌いなようだが、ぴと、と触れているぐらいの感じに、とても安心するらしい。
 触れている、といっても、本体が作り上げた「夢の中の存在」である彼には、実際には肉感的な感覚はない。
 だが、夢の中の自分が、夢を現実と認識してしまうみたいに、彼もまたその感触を「実感」と感じているらしい。
 狭いところに挟まって、安心して丸まっている姿を見ると、つい雪政の頬もゆるんでしまう。
 見ていて幸せな気分になってしまうのだ。

 が。
 幸せにひたっていられないことが、たまに、…いや結構頻繁に起こる。
 本体と夢の中の姿に、大きさの点でギャップがありすぎるせいなのか、十壱は、自分の大きさというものを、どうやらちゃんと把握出来ていないらしい。
 ある日雪政が、
 (今日は姿を見かけないけど、夢の中に入ってきていないのかな?)
 と思って過ごしていたら、なんだか部屋の片隅から、何かが必死でもがいているような気配がする。
 辿っていくと、十壱が壁と箪笥の間にはさまって、身動きが取れなくなって、ん~~、ん~~、と声なき声を上げ、ジタバタしている姿が映った。
 (ど、どうして…?)
 見つけるたびに、雪政はガックリと脱力してしまう。
 実体がないのだから、挟まるわけがないのだ。スッカスカなのだ。なのになぜ……?
 (もしかして、ああして気分だけを楽しんでいるのでは?)
 そう勘繰りたくなるくらい、十壱は頻繁に物に挟まっている。
 箪笥に、パイプの間に、書棚の隅に、布団と壁の間に。(これは間を覗いていて落っこちたらしい)
 ある時、試しに発見したまま、しばらく放置してみた。
 そしたら、声こそ出さないが、だんだん「ん~~、ん~~」という、ただ呻いている感じから、「ピィピィ…」という悲痛な様相に変わって来たので、慌ててそこから救い出すこととなった。実際には、十壱本人を掴むことは出来ないので、物を全部どかして、隙間を拡げただけだが。
 (本気で、挟まれている…)
 雪政は、戦慄を覚えた。
 本体は、しゃれにならないくらい、でっかくてごっついくせに。
 世界を形作っている張本人のくせに。
 彼が眠りについたら、それだけで、この世界は終わるのに。
 本人は、こんなにも無防備だなんて……。
 それが彼の本性だと理解するまで、雪政は長い年月を費やした。
 始めはてっきり、自分の庇護欲を掻き立てるための、芝居だと思っていた。
 違うのだ。
 本気なのだ。
 それを回想するたびに、雪政は涙目をしばたたかせて、ふっ…とため息を漏らすのだった。

 (今日は、一体どこに挟まっているのだろう…?)
 そう思いながら、雪政はもどかしく鍵を開け、急いで店に入った。
 店舗部分には、……気配なし。
 台所、居間、寝室、倉庫と順繰りに探していって、ふと、奥の書斎のほうに独特の暖かなオーラを感じた。
 (そこかー!)
 雪政が勢いよくドアを開けると、天井に近い小窓から降り注ぐ夕日に照らされた机の上の、雑記帳のページの間に挟まって、気持ちよく十壱がうたたねをしかけているのが、目に入った。カーカーと口の端から、よだれまでくっている。
 (あ…、ノートがくにょくにょになる…)
 思わずそののどかな雰囲気に、気の抜けかけた雪政だったが、その瞬間、空間がぐにゃりとゆがみ、あたりが白い光に包まれてゆくのを見て、絶叫した。

 「寝るなーーーーっ!!」

 途端にビクッと十壱が目を覚まし、世界は元通り、形を取り戻した。
 雪政は、へなへなと床に手をついた。
 (あ、危なかった…)

 確かに自分は、もしもこの世界が修復不可能な方向にいってしまったときには、引導を渡す役割を負っている。
 だがこんな状態で、その発動を許す気は、さらさら無い。
 こんな、…こんなまぬけな…。
 だがしかし、こんなことを無邪気にしでかす十壱を、監視するのが自分の役割なのだ。
 そして何より、こんなことが今後たびたびあったとしても、彼を見ているのが嫌ではないのだ。むしろそれを望んでいる自分がいるのだ。

 胡蝶の夢。
 このかわいらしい蝶に、どうしようもなく惹かれている自分もまた、夢の中に戯れる胡蝶のようなものなのだろうか…。

 雪政は、めまいを感じながら、ふと足元の古びたスリッパを見た。
 (あ…、新しいスリッパ、買ったんだっけ…)
 もう今日は、それを心の拠り所にしよう。
 でも、夜に新しい履物をおろすのは嫌だから、明日の朝おろそう…。
 雪政はうつろな笑顔で、目をこすりながらぽけっとしている十壱に微笑みかけると、スリッパの入った紙袋を部屋の片隅に置いて、言った。
 「お茶にしましょうか、十壱」

 翌朝、気を取り直し、うきうきと新品のスリッパをおろそうとして紙袋の中を覗いた雪政は、そこに、まるでお布団に入っているみたいに、スリッパの前部分にカラダを突っ込んで、顔だけを出して「えは~」と笑いかけてくる十壱の姿を発見して、声にならない絶叫をあげた。
 そして、おもむろに昨日買った携帯を取り出し、メモリの許す限り、写真を撮りまくるのであった。

 かくして、新しいスリッパは使われないまま十壱のものとなり、後日、古びたスリッパを修繕し、携帯に満載の彼の写真を眺めては、それはそれは幸せそうに微笑む雪政の姿があった。 

 
 
end
 

 

 

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