津和野藩の紙漉きに関する事  
参考文献 吉賀記・富貴村縁起    
  飛騨紙の伝習
 津和野藩家老田胡主水施政時代に「吉賀記」によると承応元年(1652)吉賀上領(かみりょう)九郎原村の住人五郎右衛門と、注連川村 の住人佐助という両人が、津和野藩の命を受けて飛騨(ひだ)の国(岐阜県)に紙漉(かみすき)を習いに出かけた。今でいうなら経費の支給を受け出張研究に出かけたのである。向こうでの生活は吉賀記によると奴僕となりとあるので、並大抵の苦労ではない辛い目にあって、三年の修行の後、承応三年(1654) に帰藩した。
 そして五郎右衛門は九郎原字畑詰の地に住み、同年冬より杉原紙を漉き始めた。藩ではこれを賞して手明格に召し抱え篠原五郎右衛門と名乗らせ七石二人扶持を与え、紙業の発展につとめさせた。
 五郎右衛門はその子の孫十郎に紙漉の技術を伝授し、その業を接がせるとともに、村外へ出向いて紙漉を指導し、紙業の発展に貢献すること多く、皆から大変尊敬された。注連川の佐助については、何も記録は残されていない。

紙漉悲話(赤子グロ)
 紙漉に一段の向上をもたらした大功労者篠原家にも、次のような悲運が訪れた。
即ち五郎右衛門が士分に取り立てられ杉原紙を漉き始めてから、僅かに三十余年にしてその家が滅びるという哀れな運命に陥った。
 各藩ではその収益を上げるために、特産物の生産方法について各々秘密主義をとり、これを犯す者はひどく罰せられた。長州藩を境を接し、一つ山を越えると防州藩の山代宰判(宰判はこちらの上領という組にあたるもの)になる。当地を通っていた参勤交代道は星坂で藩領の限界となり、山代を通り広島藩に入り、廿日市に通じていた。
 星坂に関所はあったが、この地方と山代との行き来は平常ではそうやかましくは言わなかったようです。古老の話によると、秋祭りにこちらから数人が、がやがや言いながら登っていくと、「おぅい、そこの衆らによく言っておくが、ここを通らず間道(かんどう)をぬけて山代へ行くでないぞ」と関所役人が叫んだ。その言葉の裏には手形のない者は間道(かんどう)を抜けて行けの意味だったそうで、皆声を出さず間道(かんどう)を抜けて行ったという。
 そのように、ごく近い山代のことだから人的・物的交流も古くから行われ、今に婚姻関係など多く結ばれている。
 篠原家は五郎右衛門とその子の孫十郎の二世代製紙の業に尽くし、その薫陶(くんとう)を受けた人も多く、人望も高く家も栄えた。随(したが)って家には下男下女等も多かった。その中でもひときわ優れてよく働く女が居た。それは山代から来ていた女だった。こうして彼女は孫十郎の妻女の気に入りとなり特別に可愛がられた。そこで妻女は御法度(ごはっと)のことも忘れて、うっかり女の聞くままに、紙漉の秘法(ひほう)を話してしまった。しばらくしてこのことが役人の耳に入ってしまった。
そこで妻女は代官所に呼び出され色々と詮議(せんぎ)され、法度を犯した大罪人として死刑に処せられることになった。このとき妻女は妊娠九ヶ月の身重(みおも)だった。
 それを聞いた村人達は何とかして助けようと、八方手を尽くして嘆願(たんがん)に及んだ。しかし、事が事だけに如何ともし難いとの返事が返ってくるばかりだった。
 近隣の人の願いもむなしく、ついに処刑の日はきた。仮刑場となった八助というところには、出張してきた役人はもちろん、最後の最後まで減刑を願う人たちが集まり、もう一度というので、庄屋をもって嘆願したが無駄だった。「あのいい奥様が・・、そして身重な奥様が・・・」と、皆々悲運を悲しんだ。ここにひとつ最後に助けようとした人がいた。それは有飯の古刹興運寺の住職だった。「皆で嘆願して助命を乞うても聞かれないそうだが、拙僧が刑場に臨んで仏の慈悲に任せてくれと言えば、或いは役人達の心が動くかもしれない、いざ」と言うので杖を頼りに急ぎ馳せつけた。(昔は罪人でもお寺が間に入れば減刑されたという)しかし、時既におそく、処刑が終わって人々が三々五々打ちしおれて泣きながら帰るところだった。「ああ、一足遅かったか」と老僧はじだんだ踏んで悔しがったと伝えられる。
 処刑の年月は今のところしるよしもないが、吉賀記に紙漉の世話役は天和貞享の頃、三家本彦左衛門に仰せつけているのでその前後の事だろう。
 その後地区の人々が話し合い、そのかわいそうな親子(妊娠中の)ために八助に墓を建て、その霊を弔ったと言われ、石グロの上に二つの墓(五輪塔)が並び、里人はこれに参詣し、時々線香の煙も立ち上がっている。

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 土地の古老の話によると、当時山代地方から篠原家に一人の女中が入り込んで、ことのほか勤勉誠実に立ち働き、孫十郎妻女に信頼されいつしか製紙現場を手伝ったり、何気なく製紙秘術を聞き出すに至った。女中はまもなく夜半に篠原家から姿を消した。
 その後彼の女中は萩藩のまわし者、今で言う産業スパイであった事が発覚したために、妻女は秘法漏洩(ひほうろうえい)の大罪に問われ、八助刑場で打ち首の刑に処せられた。そのとき妻女は臨月の身であったとも、赤子を連れて断罪になったとも伝えられている。
 今、八助刑場跡の石寄地の上に二つの五輪塔が残っており、土地の者は赤子グロと呼ばれている。

 当時、紙は藩の専売品で紙に対する罪が一番重かったのは、この篠原孫十郎妻女や柳村の吉松仁右衛門事件の例でも知ることが出来る
 
 
赤子グロの説明板と後ろは五輪塔

中央の小山が「赤子グロ」 (N34°21’30.21” E131°57’34.77”付近)