津和野藩参勤交代道散策
(田丸〜六日市〜大原〜生山峠)
このページでで散策した主なルート
 参勤交代により整備される街道、三之瀬から720mの峠を越える長崎新道は江戸初期の80年間利用された。1699年ここ田丸の開通により柿木を経由するルートに変更になったと言われる。
ここは高津川沿いに切り立った崖が500mも続く難所。
右画像の国道187号線上に見える標識あたりは旧柿木村(左)と旧六日市町との境界付近。
切り取ってコンクリートを吹き付けた斜面、その上側はほぼ水平に見えるが、これは旧街道の一部を残しているためです。画像には映ってない右側にはまだ岩壁は続いている。大きく落ち込んだ沢は桟道でもあったのでしょうか?
 ノーベルの発明したダイナマイトは1866年、まだまだこのような岩盤を切り取るのは相当困難な作業だったといえます。
 険しい田丸の岩壁を通り抜けた街道は田丸の集落へと入る。ここにある山ズミ神社、ここから道は二つに分かれているが旧街道は右の道で少し進むと造林地の中を通り、上にあるもう一つの道と合流して塔ノ峠(トォノタオ)に続く。

←画像は現在の塔ノ峠トンネルの上、しかしこれは道幅3.5m近くあり、これは自動車が通るために着けられた旧国道のようです。
よく見ると左側の上に旧街道跡らしいものがあります。斜面を削り取ったため道幅はだんだん狭くなり消滅しています。

 峠を越えると横立の集落、ここから七日市に向かい直線の道路、街道は現在の道路に消えたのでしょう。
七日市に向かい左手前方に見える小山は能美山城跡です。

七日市は名前の通り7日、17日、27日など7の付く日に市が開かれた所でこれが地名となった。

 七日市に入ると道は左折するがそこに建っていたのが右画像の道標、これは元禄の頃にできたものと言われ「右つわの道」と彫り込まれている。
高さ約60センチほどのこの石は、近くにある盛太ヶ岳(トロイデ火山)から噴出した安山岩と思われます。
六日市方向から七日市にはいると小さなな町の辻に「右つわの道」の道標。当時の風景を脳裏に感じることができます。

 この道標はこの場所から100mほど離れた町の中の道に建っていた。道路改良により撤去され七日市小学校の校庭に移転、現在はその後新しくできた国道沿いのバス停に再度移転されている。
 七日市の町を過ぎると坂折まで岩壁が続く。ここもおそらく夜打原や田丸の岩壁と同じように難工事の末に開通したのでしょう。
画像右側には初期の街道、三之瀬から長崎新道を通り降りてきた道があり、この先の牧渡瀬(まきわたせ)を川船で渡り坂折の峠に続いていた。
 坂折は緩やかな上り坂が続く、旧街道は赤線のように続いていた。峠は現在の国道トンネルから150mほど離れた所を越えていたようだ。GPSは峠の位置を北緯34度22分45.4秒東経131度54分45.4秒と表示する。峠から旧火葬場前に出る道は雑木林の中、かすかにその跡を見ることができる。

 ここから続く広石地区は集落の中を通る道路が街道だったと聞いた。この道沿いには「吉賀記」を残した尾崎太左衛門や、名医だったと言われる三宅雄仙の墓などもある。
 六日市の町にはいるとほぼ中央に北側に向かう細い道がある。現在の六日市小学校はかつての代官所があった場所で、参勤交代のとき本陣(諸大名が参勤交代などで泊まるように指定された宿)となった。

 時代によって本陣は変わったようで、後には画像手前から左に入った庄屋が本陣になったようです。

 早朝のまだ暗い頃津和野を出発して、夕方ここの本陣に到着、実際に歩くと相当な距離になる。かなり速いペースと言えるようです。

    翌日早朝、六日市本陣を出発した一行は有飯、九郎原、蔵木、樋口、田野原となだらかな道は続く。

国土地理院地図上に描いた街道(
線)   (吉賀記・六日市町史・蔵木公民館の資料・聞き取り調査参考)
 
   
 六日市本陣を出発するとすぐに見えてくる小さな山、陣賀城のあった小山でこの鞍部(
)を超えて旧九郎原村へと入って行く。
   
現在の陣ヶ城峠の様子

 
       西暦1655年、飛騨から紙すきの技術を持ち帰り、この近くの畑詰で良質の紙を漉き始める。その後、紙は津和野藩の専売となり津和野街道を運ばれ廿日市を経て大阪などに運ばれた。


 赤子グロ:陣賀城を超え街道から少し離れたところにある小さなグロ(小石を寄せ集めたもの)がある。藩政時代紙すきの技術は極秘事項、篠原五郎右衛門の妻は、他藩の者とは知らず技術を教え、臨月のまま処刑されたと言われる場所。これを哀れみおなかの赤子とともにここに葬り霊を弔ったと言われる。

この話をもっと詳しく
 
         
   ↑左上の画像は九郎原谷左岸付近、ここは塚松の地名が今も残っていると教えて頂いた。ここに一里塚があったと思われる。    右上の画像は塚松から川を渡り進んだ重則付近に残る参勤道、旧街道沿いに妨獣柵が設置されていた。↑  
       
  ↑ 妨獣柵に沿って暫く進み道趾は柵から離れる。そこにあった自然石の墓?、後で調べて見るとこれは「背かき地蔵」と言われるもので、地蔵様の背中を撫でると子供の夜泣きが直ると言われている。 
GPSはN34°22’10.14” E 131°58’22.02”付近を示す。
   ↑上流部で起きた河川争奪により、宇佐川・深谷川が錦川に奪われて切頭川となり、水量の激減したこのあたりは水無川となった。当時橋が無くても簡単に川を渡ることが出来ただろう。
 
     
 蔵木庄屋のあった藤根付近、県道沿いの民家の裏に残る旧街道、さらに川を渡り五反畑を通り本蔵木へと道は続く。
 
 
一里塚について
 一里塚が整備されたのは江戸時代に入って家康が日本橋を起点として東海,東山,北陸の3街道に1里ごとに5間 (約 9m) 四方の塚を築かせ,塚の上にはえのきや松を植え旅行者に便宜を与えたとある。

 その後地方の街道にも設置されたと思われるが、一説ではその距離は正確に一里とは限らず、一休みする間隔だったようです。六日市町史に見られる塚松間の距離を、現在の地図上で測定してみると推定でも5km以上になります。(一里は3.927km)


 
   
 吉賀記・六日市町史・蔵木公民館の資料を基に国土地理院地図上に描いた津和野街道(線)
 

高津川は九郎原と蔵木の間には一部水無川となる。弘法大師の伝説ある。

→画像は田野原にある「八町八反八畝八歩(ハッチョウハッタンヤセハチブ)畦なしの田」と言われるあたり。この上流で起こった河川争奪により切頭川となり、著しく少水量となった川は沼として残った。八町八反あぜなしの田と聞けば、良田で多くの実りをもたらしてくれると思いがちだが、底なしの沼で過酷な労働の割には収穫も少なかったと言われている。
縄文・弥生に始まったであろう稲作はこのような湿原に始まったと言われている。
 現在では湿田のため農業機械の利用が難しく、ほんの一部のみ耕作され他はガマの茂る湿原と化している。
 高津川の水源になっている大蛇ヶ池(杉の木の下)と一本杉、現在公園として整備されそばには水源会館も建っている。
旧津和野街道はこの前側を通り星坂へと続いている。

星坂の峠に建っていた境石は現在、この一本杉の下にある池のそばにある。

高津川の水源一本杉のそばに建つ境界石、以下はこの説明板の全文

  この境石は周防国(萩領)と石見国(津和野領)との境、江堂の峠に立ててあったものである。この道は亀井氏の参勤交代の順路にあたり江戸時代(西暦1729年)に藩主が建てたもので、二百数十年を経ている。
 明治の廃藩置県のため、当時の田野原庄屋・蔵方が宇佐郷畔役と立会いのもとに撤去し代わりに「是より西浜田県御支所」という木製の標柱を明治4年12月に建て、境石は田野原元郷主神社境内に移された。
この境石は参勤交代を含め江戸時代の当地、および津和野藩の歴史が秘められており、藩政時代の大切な文化財であることから当地に移転し保存するとともに歴史の参考に資するものである。


 右画像は星坂の民家そばにある番所跡、上の図は六日町史による番所の見取り図。
 番所跡から緩やかでまっすぐな登りを200mほど行くと峠に着く。是より先は山口県岩国市錦町宇佐郷になる。
この峠は江堂の峠と書物には記されているが、地元の人には「宇佐郷峠(うさごうだお)」と呼ばれている。石で作られた小さなお堂に石仏が2体あり、花、線香立てなどがあり、今もきれいに手入がれされている。
→東側は切り立った崖になっており前方に羅漢山が見える。そこに続く道沿いの田畑、民家も点在しているのが見える。
眼下には宇佐郷の家々が木立越しに見える。宇佐郷との標高差は175mほど。
 先ほど水源公園にあった境界石はこの場所に建っていたもの。

 峠の位置北緯34度22分11.2秒東経132度00分47.2秒
GPS が画いた軌跡 星坂番所跡、江堂の峠、石畳などが見られる。
 宇佐郷に向けて峠を下り始めるとすぐに作業道があった。幅2.5mほどの作業道は旧街道を拡張した形で緩やかに下りながらそれは約500mほど続いて終わった。ここからは昔ながらの道である。意外なことに島根県内の道幅に比べて30pは狭い気がする。その中で一カ所小さな尾根を越えるのに道幅が極端に狭い箇所があった。下幅は約50pほどでV字に岩盤が切り取られているが、かついだ駕籠の下幅がやっと通れるほどの広さしかない。ここは他国の領域あるがままの路を利用するしかなかったのだろうか?宇佐川に架かる橋を渡り県道にでる。番所からの距離役約1.7km。
宇佐郷に降りる途中にある石畳 街道登り口にある説明案内板

 右の写真は向峠の県道16号線の交差点にある道標で、正面には「右石州道」左側面には「左宇佐道」と彫り込んであり、古い時代の道標のようだ。
 おそらく宇佐郷にあったのを移転したのではないかと考えられる。なぜなら深谷大橋が開通する以前には向峠、初見の間には深谷峡谷があり、容易な道ではなかったからだ。石州道は星坂に続く津和野街道であろうと思われるし、宇佐道は宇佐神社に続く道なのだろう。
 岩国市錦町宇佐郷に降りて国道434号線を、約500mほど上流方向に登ると県道59号線がある。ここを右折して羅漢山へ登っていく。約3.5kmほど登っていくと大原の集落がある。

 かつての大原の庄屋で讃井(さない)家、ここが二日目の本陣になったところ。
津和野を出発して二日目の夜はここに宿泊した。


 翌朝出発した一行は羅漢山へと登って行きます。
→大原上地区から見た羅漢山(鞍部より右側)、稜線の鞍部が峠で標高は950m以上ある。(生山峠は見えない!)
ここを目指し道はうねりながら登って行く。小川をはさんで棚田が広がり今収穫の時期を迎えている。
このあたりの道路はかつての街道を拡張したと言うことだ。


 地元の人の話では5月の連休にはキリスト教関係者が峠から下りてくると言うことだ。明治政府はキリスト教を禁じ長崎県浦上のキリシタン3600人を全国20箇所に収容、拷問により改宗を迫った。津和野にも153人が収容され36人が殉教したと言う。鎖で繋がれこの道を津和野に送られた信者もいたのだろう!
 大原上集落最上部の家から100mもあがると、杉の造林地の中に現れる小さなやしろは「大原明神社」(後述の生山の地名に出てくる大原明神社)である。
 この神社の境内には杉の巨木が立っている。樹齢は不詳だがおそらく各時代の津和野藩主の参勤交代や多くの旅人を見守ってきたに違いない。またそれらもここで参拝し峠越えの安全を願い、また無事越えてきたことに感謝したのだろう。
津和野街道はこの神社の右側を通り峠へと続いている。

 大原明神社の境内にある杉の巨木!巻き尺計測してみると胸高周囲5.81mだった。

赤い線は今回歩いたGPSの軌跡で、一部は下方に見え隠れする街道を捜しながら道路上を歩いている。破線は推定される古道。

 大原明神社から登る津和野街道は杉、檜の造林地の中を登っていく。数カ所に見られる石畳は水による路面の浸食をふせぐためなのだろうか?今は苔むし滑りやすい。
 一年間に数度雑草が刈られているようで、この日も笹をつい数日前に刈ったと思われるようで、快適に歩くことが出来た。

→画像は羅漢山山頂下の標高965mの峠の道路に続く津和野街道。

 峠付近の道路沿いにある石仏、少し入った所にある石仏の前は街道跡がはっきり確認できる。探せばまだ多くの石仏がありそうだ。
名前からして羅漢山が信仰の場で参詣道だったのか、また街道の安全を祈願したものなのかは今のところわからない


 965mの最大標高を超え約1.3kmほど下ると旧生山峠(800m)になる。
→旧生山峠、峠の定義に当てはまらない峠に見える。現在の生山峠はここから200mばかり下ったところになっている。
落ち葉の降り積もったあたりから、道路標識の支柱の所から造林地の中へと街道は続いていた。ここに
四十八番の石仏が鎮座している。
 生山峠はかつての国境であり、現在山口県と広島県の県境でもある。

 生山の地名の由来については治承4年(1180年)11月8日夜、ひとむらの黒雲と共に神光が大原明神社の大岩に落ち、村人達が様子を見に行くと一匹の大蛇が巻き付き、大変生臭かったのでこの附近の山を「生臭山」と言い、後年「生山」と言われるようになった。(説明看板より)

 生山峠を越えて中道、恵子谷、栗栖へと下りここの庄屋の小田家を本陣として宿泊、次の日津田、明石、宮内を経て廿日市に到着した。
これから先は他のサイトでも詳しく紹介されているので、私の津和野藩参勤道散策の公開は一応これで終わりますm(^_^;)m