五郎丸城趾    
   2016年1月3日探訪  
 
 五郎丸城は上杉五郎丸の城であることから名付けられた。「天文の役」、天文二十三年(1554)2月、江良弾正・端土太郎は、萩尾城を攻め落とした勢いに乗じて陶軍は萩尾城の生け捕りを案内として攻め寄せ広石来口、注連川仏峠、床尾の三方から攻め寄せ、、一・二の空堀を越え馬返しを乗り越え本丸へ進んで放火した。城中では力を尽くし防戦したがまだ二月の冷気で手足も凍え、終に立戸川へ総崩れとなり、水の中で戦い五郎丸は入水して死んだ。残りの士卒は立戸岩田免へ逃れていった。坂折城をさして逃れんとするところを追いかけられ、残らず討ち取られた。
 城主五郎丸入水の所を五郎丸淵といい、士卒の討死した岩田免には数百の墓有りと「吉賀記」は記している。

 
   
探訪したルートを国土地理院地図上に描いたGPSの軌跡
 
   
 沢田から続く尾根の北端に位置する五郎丸城跡、現在は公園として整備されて歩道もある。
 
   
 五郎丸城趾の平地最北端から南方向を見る。平地は東屋の先にも続いている。
 
    五郎丸城説明板の内容
 上杉五郎丸が居城したため五郎丸城と名付けられたものである。築城はいずれの時代か詳細は知られていない。
 今からおよそ430年前の天文23年、山口の大内義隆を倒した陶晴賢の武将江良弾正の臣端土太郎の両名が300余騎を以て沢田脂月城(別名萩ノ尾城)をおとし、生捕者3名を道案内として峰伝いに迫り、空堀・馬返しを乗り越えて五郎丸城に迫り、本丸に放火した。城兵は二月の厳寒に手足凍えてかなわず、ついには総崩れとなり、川の中の戦いに五郎丸は入水して死す。残りの兵は羽生城に逃れようと敗走中、残らず討ち取られた。現在も田の中に点々と五輪塔があり、五郎丸の入水の所を五郎丸淵という。山裾の重藤端たもと近くに、五郎丸城主の宝篋印塔が建っている。
 

 
 
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 五郎丸城本丸(上端)に続く道、その手前に堀切と思われる窪地が確認できる。

本丸位置
 N34°22’19.73”E131°54’55.32”
 
   
 城跡になぜか多く自生しているフユノハナワラビ、落城した時期を前に胞子葉をひろげていた。
 
   
 本丸から西側に数段降りた所にある、尾根を横断する空堀の一つ400年の時が経ち堀は埋まって浅くなっているが、当時は敵の侵入を阻止する深さがあったのだろう。
 
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 城跡から五郎丸らが敗走したのではないかと思われる沢(個人的な思い込み)を下ってみた。
 現在の重藤橋で五郎丸淵はこの橋の付近だったと聞いた。


 この橋の左たもとから少し入った造林地に、上杉五郎丸の墓はあった。


 羽生城は橋向こうの山の右側にある(見えてないけど(-_-;)
 
 
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 上画像の重藤橋に向かって左側の、水路を越えた山側にある宝篋印塔は上杉五郎丸の墓と言われている。
 また近くの集落そばにある墓地には、五輪塔、古い墓などが多いが、この時の戦死者なのかも知れない。
 
    
 今回は時間的な制限もあり探訪とは言いがたい内容になった。空堀の位置もGPS座標を地図上に描いてみると本丸の西側になる。東側にも鞍部があるが、そこらの様子も知りたかった。
 脂月城(萩ノ尾城)から五郎丸城に続く尾根上には「大炊城」「志目川城」「広石城」などの古城があるが、吉賀記などにはそれらの戦いの記述は見当たらない。