吉賀の古城跡探訪   
 2016年1月作成
 

 
吉賀記によると吉賀町の古城跡として以下の記述が見られる。 

 田野原-中山城・有飯-茶臼城・六日市-椿ノ城 ・沢田-萩ノ尾城(脂月城)廣石-五郎丸城・注連川-大炊城・注連川-乳母城・ 蓼野-城山・七日市-能美山城・七日市-横田城・ 七村-政国城・木部谷-木部谷城・福川-三之瀬城・ 福川-山田城・
朝倉-羽生城 などが見られる。(六日市町史には広石城の記載もあるが吉賀記には出てこない?)

 ここでは吉見正頼が津和野三本松城主だった頃の、吉賀の城を廻る戦い、つまり陶晴賢が大内義隆を滅ぼし、三本松城主吉見正頼を攻めた戦いの一部である吉賀での戦い。

 吉賀記によると天文二十三年(1554)二月、陶晴賢の武将江良弾正房栄・端土太郎は山代境より吉賀の地に攻め入った。 
 まず最初に攻撃されたのは脂月城で次に五郎丸城・羽生城・能美山城・三ノ瀬城と攻められた。
ここではその戦いの場所となった城跡を訪ねた記録です。

  
 
   脂月城跡(萩ノ尾城跡)   五郎丸城跡   
   羽生城跡   能美山城跡   
  三之瀬城跡      
   
これらの城はイラストのような天守閣のある城では無く、おそらく丸太で組まれた柵を巡らし
その中に掘っ立て小屋があり、武器(弓・刀・槍・鉄砲など)が保管されていたのでは
ないかと想像します。古城跡を訪ねてもそこには石積みも、柱を支える基礎石も
今回訪ねたそこには見ることができませんでした。

ウィキペディアでは(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防御拠点として設けられた建築物。
戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の備蓄場所でもある。云々とあります。

各城も江戸時代に入り慶長20年(1615)、徳川幕府は「一国一城令」を制定した。
つまり大名の領国(後の藩)に大名の居住する城、或いは政庁とする
一つの城を残して、そのほかはすべて廃城にするというものです。
それにより津和野藩の吉賀にある各城はすべて廃城となった。
そして、400年の時は流れた。
 
  吉賀記・六日市町史・柿木村誌・他参照