能美山城跡  
  探訪日: 2016年1月3日  
 
  陶晴賢三本松城を攻める。その一族端土太郎は、山代口より吉賀に入り沢田の萩尾城(脂月城)を攻め、城主竹内豊後守を討死せしめ、注連川の志目川城を焼、広石の五郎丸城を攻める。城主上杉五郎丸討死。朝倉の羽生城を攻める。城主吉見弾正を討ち、七日市の能美山城を攻める。城主の横田与四郎は、吉見の軍と謀り陶軍を撃退した。その戦域は蛇岩より責ヶ溢に及んだ。 


 赤い線はGPS の軌跡を国土地理院に書き込んだもの
 
   
 小野々からみた能美山城跡。
 大手は浄雲寺裏からはじまる。
 
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 七日市の浄雲寺裏に能美山城に登る大手がある。そこにある案内板の内容
能美山城跡
大手門
 能美山城は津和野三本松城の南の護りを固めた典型的な山城で北東に連なる尾根と深い谷でさえぎり、南から西へ吉賀川、北から西へ高尻川が流れ、天然の外堀を形成しており、他の城との連絡も容易な場所に存在し、自然条件に恵まれた城であった。
 この城は津和野城を初めて建てた吉見頼行の弟で横田頼挙(よりたか)が正中年間(1324~1326)に造った城で、以後十一代頼綱まで270余年の永きにわたり、津和野城の主要な支城として天文23年(1554)の戦史を物語る横田一族の居城である。

 
   
  七日市浄雲寺裏から大手を登り始める。最近は登る人もいないのか、道は踏まれた形跡は無い。ここは能美山88観音霊場になっているらしく、石仏があちこちに安置されている。

 約20分弱で城跡に到着した。
 
   
 脂月城跡でも見られた「矢竹」がここでも生育していた。おそらく植生されたものだろう。脂月城のものほど繁ってはいないが、今なお残っている。
 
 
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 何段にも切削された城跡、点在する石仏、小さなお堂もあり、ここには弘法大師像が安置されていた。
 
   
 なぜか城跡にある鋳鉄製の羽釜が一つ、往時のものなのだろうか?
 
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 空堀は2~3カ所にある。この空堀は中央は土を残し狭い道になっているのかも知れない。
この奥にも切削地が有るので堀切と言えるのかも知れない。
 
   
 最後の空堀、端土太郎は城主横田与四郎頼綱の謀にはまり、この尾根を蛇岩へと逃げて行ったのだろう。
 
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 酌ノ谷(柵ノ谷)へ降りる道、搦手なのだろうか?城跡北側には柵が作られ棚が張られ、そこに石弓が設置されていたと吉賀記は伝えている。
 
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 蛇岩(画面中央)と言われる付近と対岸の小野々。
 
    
 横田与四郎頼綱の謀(はかりごと)
 
この城は吉賀第一の要害であるから、三本松城から加勢として、吉見越後、落合豊後、堀九郎兵衛らが加わり待ち受けていたが、敵は吉賀の諸城を落とし、軍兵は勢い盛んと見えた。与四郎は謀を廻らし、斧野(小野乃)へ出迎え、敵将端土・江良へ申し出て「拙者はここ、能美山城の城主横田与四郎頼綱と申す者である。とても防戦できません。この際亡命するのも難しいので降参に参りました。」と申し述べれば、両将協議の上許し、早々に城を出るようにと言った。
そこで城内の兵を連れ、加勢の者も民家へ下げ、城内を無勢に見せかけ、二月二十五日に陶軍を迎え城を引き渡し、両将はこれを受け取った。
 端土太郎に百騎ばかりの軍卒を添えて城番に置き、江良房栄は主力二百騎を率いて長崎新道を経由して三の瀬城に向かった。
 端土太郎は二・三日休憩して後に城兵の配置をしようとしたところに、西の横山の枝城から孫右衛門尉頼康、横田壱岐守、吉見越後、落合豊後、堀九郎兵衛が軍卒を率いて一同鬨(かちどき)の声をあげ攻め寄せた。城を十重廿重に取り巻き揉み合う内に、ひそかに入った味方の兵が城内の諸方へ火をかけたので、一円が煙となり、端土も思いよらず不意を打たれて悔しがり、速やかに打ち払えと下知すれど、具足や太刀を付ける間もなく、城中は火の海となり、軍卒も仕方なく搦め手へ逃げていった。 端土も今は叶わぬと一戦も交えず、士卒五十騎余りを連れて城を出、蛇岩を目指し逃げていった。横田が数代召し連れていた農民達も、城下から追いかけ川中へ追い入れて戦った。端土の士卒の大半は溺死した。
 端土はひとまず落ち延び、士卒を立て直して戦わんとしたが、僅かに四・五騎となったのでは何も出来ず、この方の岩の上に上がって自害し果てた。(六日市『町史より)

 う~ん!吉賀町の住人としては手を叩きたいが・・・、武士道は泰平の時代のことなのでしょうか?