三之瀬城跡  
  探訪日: 2016年1月4日  
 
 三之瀬城は天文11年(1542)吉見正頼が斎藤助五郎に椛谷福川を与え、津和野城の枝城として築かれた。次いでその子一郎左衛門が城主となった。小さな』山城ではあるが、福川川が半円形に流れ、天然の濠をなし、背後には奥深い山が連なっている。また、周防方面から椛谷を経由し来る道、津和野への道、抜月から続く長崎新道があり交通の要衝でもある。
 天文23年(1554)津和野を攻める陶晴賢軍の一隊、江良弾正・端土太郎は
吉賀の城を次々に落とし、ついに江良弾正の軍はこの三之瀬城に襲いかかった。激戦を伝える資料は少ないが、斎藤氏や重臣の住居は新井ヶ原にあり、ここでの戦闘が主だったのか、かつての田んぼのあちこちに五輪塔・宝鏡印塔が見られる。それらは圃場整備により新井ヶ原の円通寺墓地公園に集められている。 
柿木村史参照 

  
 
   
 
三ノ瀬城跡のある小山と「とびのこ山」、とびのこ山の麓から抜月へ通じる「長崎新道」がある。
 城主の斎藤氏や家臣の家は新井が原にあったと言われ、「陣屋敷」・「矢倉田」・「かご田」・「風呂屋」・「鍛冶田」・「黄幡の森」などの穂野記名として残っていたが、圃場整備により消滅した。
 
   
 三之瀬城へ続く大手だったのだろうか、細い道は田んぼの中を通り、城跡へと続いている。
 
   
 本丸と言われている平地、住居のあった新井ヶ原・本郷などの集落が眼下に広がる。

 中央の標柱には次のことが書かれている。
三ノ瀬城址
福川川が半円形に流れ天然の濠をなした山城であることがわかる。

斎藤氏や重臣たちの住居があった新井ヶ原が一望できる。 
 
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 大きくわけて3段に敷地は分かれている。
最上部が本丸と言われている。画面右端に空堀がある。
 
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 本丸の南東側の尾根を横断するようにに、大 きく堀り込まれた空堀、他の場所のものより深い。さらに平地がありもう一つの空堀らしい窪みがあり、南東に続く奥深い山につながっている。
 
   
 城主や重臣たちの住居であった新井ヶ原、そこにあった五輪塔や宝篋印塔は、おなじ新井ヶ原の墓地公園に集められた。立派な宝篋印塔は城主のもかも知れない。
 五輪塔や宝篋印塔が天文の役の犠牲者とは限らないのだが・・。

 他にも家来達の住居は菅原地区にあったと言われ、そこにも五輪塔・宝篋印塔が多く見られる。

 
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黄幡の森(柿木村誌279頁) 
 新井ヶ原から三ノ瀬城跡い向かう道のそばにある「黄幡の森(おうはんのもり)」と言われる場所。黄幡神とは八将軍神の一つで、軍陣の守護神だという。
三ノ瀬城守護のために祀られたものだという。
この黄幡の森と言われる場所は三ノ瀬城からは西南西の方角になる。
村誌の言う北の方角にはあたらない。

 2014年まで注連縄をしばり弊を立て祀っていたが、維持が困難になり廃止されたと言うこの場所には、まだ何本かの注連縄が巻かれ、竹串に弊が付いたものが残されていた。400年以上続いてきた祭事だったのだろう。
 
 
         
    
 城主斎藤一郎左衛門は豊臣秀吉の文禄・慶長の役に吉見元頼に随い渡韓し功績をあげた。慶長の役では蔚山の戦いで辛酸をなめたが、明人の陶工李郎子(りろうし)を捕虜として連れ帰り、唐人屋(後の穂之記名)で焼き物をさせた。