脂月城跡(萩ノ尾城)    
  探訪日: 2015年12月13日  
 
 脂月城(萩尾城)
 北に吉賀川を控え背後には平家ヶ岳の連山が続き、北東は六日市平野、真下には沢田の平地が眺望できる。
 国道187号線広石付近から見ると、南南西方向の山頂近くに見える金属板(UHF反射板)のある山、その山頂が脂月城跡になる。
 この城の沿革は古く、「匹見明見地斎藤氏系図」によれば斎藤氏の始祖斎藤実春は平家の残党で沢田に逃れ、四代在住したとしている。
 室町時代中期になって津和野城主吉見弘信の弟竹内直信が、兄の命により津和野城の枝城としてこの城に入った。天文二十三年(1554)豊後守弘時の代に陶晴賢軍の武将、江良弾正、端土太郎は周防山代方面から侵入し萩尾城を攻め、豊後守は衆寡敵せず(多勢に無勢などの意味)自刃したと吉賀記は伝えている。

 
 
       亀原地区で脂月城について聞き歩いていると、城跡に到達できる場所を教えてくれるという。丁寧にその場所まで案内して頂いた。地図上に破線のある恩給への入り口も、アスファルト舗装の終わった付近にその古道はあるという。その場所から約600m入った所を教えて頂いた。
 
←東斜面、急登でしたがこれはちょっとカメラが傾きすぎだったようです。山頂から少し下がった所、攻め登るには不利です。

 
   
 山頂(城跡)東側直下は少しなだらかで、そこの尾根には空堀と思われる窪みが尾根を横切っている。約10mほど離れて更にもう一つの空堀があった
 
    N34°20’39.41”E131°55’40.07”
 脂月城跡(萩尾城)最上部は平均幅は約15m長さは約60m程度だろうか、以外に狭い感じがする。 両側は急勾配で攻め上るには難しいだろう。

 
     ←
 山頂から北西方向、木立超しに見える集落は沢田中の家並みだろう。
 往時は立木など無く、広い範囲を展望できたのだろう。
 
 
   
 西側に約2mほど下がって切削した平地があるが、そこに群生していたのはヤダケ(矢竹)だった。おそらく南側斜面に植生されたものではないかと想像する。弓矢を作るためなのだろうが、補給を断たれた時の備えなのだろうか?
400年以上の時を超え今尚そこに繁っていた。
 
   
 尾根は南西方向に続き、切削地の城跡を過ぎると、明らかに自然ではない窪地がが約10mほどの間隔で二カ所ある。これも空堀に間違いないだろう。 
 ここから更に60m下ると鞍部があるがそこから南側に下山した。
 
     国道187号線から見た脂月城のあった山。
(集落は沢田上地区)
 
    
 今回この城跡に上ったルートはあまりにも急登で、少なくとも大手や搦手ではないはず 、いったいどこから上ってきたのだろうと考えながら帰宅した。後日地図をみて納得した。おそらく、亀原から恩給に山越えの道らしい破線を地図上に見ることが出来る。この峠から続く尾根が一つの道ではないか?さらに城跡からほぼ北に向かってある尾根、これらがおそらく大手・搦手だったのではないだろうか。
 これらを確認できなかったのは残念、又いつかこれも確認してみたい。

 ところで江良・端土の軍は周防山代から攻め入ったとあるが、そのルートはよくわからない。 現在の国道187号に沿った大野川を遡るのは無理だったのように思う。 広瀬から木谷峡を遡り、平家屋敷、平家ヶ岳の鞍部を越え尾根伝いに攻めてきたのだろうか?
これも冬期に積雪のある標高950mもの峠を越えてくる事が可能だろうか?。遠回りの宇佐郷から星坂と言うルートにしては、蔵木方面での戦いの記録がない。う~ん?いったいどこから???(-_-;)