津和野藩参勤交代道(長崎道)を歩く
 街道は津和野を起点に笹山、福川を通り初期の頃は三之瀬より長崎山を越え抜舞に降りる(後に柿木回りとなる)。六日市、蔵木、星坂の関所を通り長州領の宇佐郷に降りる。さらに羅漢山の生山峠を越え芸州へは入り廿日市までの道で御参勤の一行はここから船で江戸へ向かった。多くの記録が残されている中で、記述の少ない長崎道について幾度となく踏査した記録です。
 街道でも難所であった長崎道は1555年から1557年にかけ、津和野城主吉見の臣鳥井伊豆守抜舞村にしばらく住み、柿木村の三之瀬より抜月まで三里の深山を切り開き、開通させたと吉賀記にある。
1616年亀井政矩が津和野城主に着任、その後参勤交代に使用され、江戸、山陽などの文化が当地方に入り、また当地の文化・産物も出て行ったであろう重要な街道となった。

後年、田丸道が開通して柿木回りとなる約80年間御参勤の道として利用、その後も昭和初期まで津和野、吉賀地区を結ぶ最短の歩道として利用された。

柿木村では長崎道は一般には長崎新道と呼ばれているが、新旧二つのルートがあり、いずれも標高750m前後の峠越えの険しい道になっている。
「長崎新道」
として今も思いをいだく人は多い。
私も数年前からこの街道を歩いてみたいという想いに駆られ探し歩いた。

聞き取り調査では抜月側では「いまみち(新道?)」・「ふるみち(古道)」とはっきり区別されている。
これはそれぞれの道が直線距離でも1.2km離れていて混同することはないからと思われ、福川側ではその区別がなく、抜月側で「古道」と言われている方を、長崎新道だと言われている。
これは柿木村側では長崎谷を1.3km上り、民有地の中を通り尾根伝いの道で、近年まで山仕事・猟などに利用されなじみ深く、その後いつの頃作られたのか不明だが、さらに谷を1km上った国有林内の道はいつしか忘れ去られたようだ。



       簡易歴史年表
定かではないが、ここでは当初開かれたルートを長崎古道(ながさきふるみち)とし、後にできたと思われるルートを長崎新道(ながきしんどう)として区別することにする。 長崎の地名については、「長崎山」「福川長崎谷」「(柿木)長崎谷」などあり、特定の山を示すものではなく、鈴の大谷山山塊から「とびのこやま」に続く尾根を言うと思われ、長い崎の意味。(抜月側では「長崎」の名前は聞かれない。
長崎古道(ながさきふるみち)
長崎古道は三之瀬より高津川の支流福川川を渡る。ここは「はしとこ」と言われ、今の橋とほぼ同じ位置を渡っていたようだ。福川長崎谷沿いに林道を入っていくと左手の背丈ほどのところにそれらしい跡を見つけることができる。ほぼ林道に沿ってあったものと思われる。1.3kmほどはいると左側に橋があり、その方向へと長崎古道は本流からそれ入っていく。とびのこやまから続く稜線の鞍部は「とりごえのお(鳥超えの尾)」と言われ、その南側にある幅の広い尾根が六間道(ろっけんみち)でここを目指し道はつづら折りに上がっていく。
柿木村誌には参勤の時、尾根を登った所の六間道に水茶屋をかけ、休憩が行われたとの記述があり、このルートを御参勤に使っていたことが伺える。

福川長崎谷入り口_三ノ瀬付近
中央付近の山は「とびのこやま」、そこから手前に続く尾根を往還は登ってくる。
六間道は中央の山から続く尾根の鞍部近く。
とびのこやまの右裾に白く見えるのが柿木村。かつて柿木村は「見迎村」と言われた。六日市方面から峠を越え帰ってくるとると、見迎えてくれるように目に入ってくる人里。険しい山を越え眼下に見える人家は、さぞかし心強く感じたことだろう。
峠の名前は不明だが旧町村境でもあるこの場所、北緯34度24分36.9秒・東経131度51分56.7秒とGPSは表示する。→
峠から少し上がった木立の中に、巨木のシルエットが浮かぶ、直径1mをはるかに超えるブナの古木である。この峠で一休みし、また忙しく下りていった人々、そんな往日の記憶をこの巨木は留めているに違いない。ここから抜月側はスギの造林地、倒木に遮られ一時道を見失う。
しばらく降りるとまた谷沿いにはっきりと道が現れる。谷を右に見、また左にと変わっていくが、いったい谷川にはどんな橋が架けられていたのだろうか。所々に残る石積みは橋台なのだろうが、ここに丸太が並べてあったのか、それとも木製の桁が渡されその上に板、または丸太が横に並べてあったのか?想像はつきない。
いずれにしても人馬が十分安全に通れる幅と強度はあったはずである。

吉賀町坂折地区より北西方向に見える二つある峠の位置関係。古道の峠にあるブナの大木らしい樹影も確認することができる。
里に近くなると石積みの段々が現れる。造林地ではあるが、かつては田んぼだったのだろう。
←大谷地区に出ると民家の裏に果樹園があり、ここは茶屋の跡だったと聞いた。
峠を下りてきてほっとした人、これから険しい峠越えに向かう人など、立ち寄った人たちの思いを今も鮮明に感じることができる。
長崎道はここまでだが、御参勤の一行はここから高津川沿いに登り、牧渡瀬(現在のヨシワ工業裏の川)を船で渡り坂折を通り六日市へと向かった。
柿木村誌では御参勤の一行は抜舞坂根で昼食をとったとあるが、行程としては無理があるようだ。六日市町史には「貞享元子年(1684年)、抜舞の坂根より陣屋を桜の馬場(現六日市小学校)に移す」の記述があり、それまではここで宿泊したことになる。
坂根の地名についてはついに確認できず、また抜月の集落に陣屋跡と言われる場所は確認できなかったが、「ナカジンヤ」「シモジンヤ」の屋号はこの地区に存在した。
長崎新道
もう一つのルート長崎新道。いつの頃変更されたのかは不明、一説には古道は参勤に使用するにはあまりにも険しいので変更されたと言う。長崎谷川をさかのぼるのは同じだが旧道が左にそれる箇所からさらに1kmほど登っていくと左に谷が現れる。本流から左にそれコンクリートの橋を渡り入っていく。御参勤が柿木回りになった後もこのあたりは、たたらによる製鉄が行われたところで、重要な道であることに変わりはなかった。
三之瀬から1.8km付近、林道の対岸で見つけた往還は今もはっきりとその姿をとどめていたが、人々の記憶からは遠のき知る人はすでにいなかった。
しばらく行くと道は2つに分かれる。左の橋を渡り入ったあたり「たたら師の親方」の住居だったところでもある。往還は上流に向かって左側の斜面を奥へと続いているが、たたら関係者の墓と思われるものが、多数雑木林の中にある。 滝を避けるように谷川から20〜30mの高さをとりながら道は続いている。特にこのあたり土質が悪く、沢は長い間の崩落により埋没、あるいは崩壊してわかりづらいが、いくつもある尾根部分ははっきりと当時の道幅を保っている。
道は水平に進みやがて谷川に出てくる。対岸には石積みが見られここを横断したようだ。谷川の岩には赤いペンキで境界を示す印が書かれている。大きく入り込んだ民有地と国有林の境界だろうか?。 左手に見える谷川には小さな滝が次々と現れてくる。谷は二つに分かれ左は左谷、右は奥水菜谷となりこれを渡る。道は一度大きく折り返し造林地の中を登っていく。
さらに谷は分かれ左側の「クビククリ谷」を渡る。ドキッとするような谷の名前からすると、このあたりでかつて悲しい出来事があったに違いない。

→ここからはクビククリ谷を左に見て、ジグザグに高度を上げながら道は峠へと続く。
幅1mほどの小さな谷には、ワサビ畑(水田)の石積みとは明らかに違う構造の石積みで両岸を補強され、おそらく木製の橋が架かっていたのだろう。→

この場所へはこれまでに三度抜月側から探して来たのだが、毎回ここで道を見失っていた場所だ。
道は谷を渡り折り返していた。山腹の崩落により完全にその姿は消えていたのと、単純な思いこみから見つけることができなかったのだ。

谷を越えると緩やかな下り勾配でさらに尾根へと向かう。
このあたりはすでに里山の領域、はっきりとした道は近年までワサビ栽培・炭焼きなど山仕事で利用されていたのだろう。
尾根からさらにナガバタケ谷へと折り返しながら降りて行くが、この尾根も籠立ての場だったのだと言う地元の人の話を聞いた。
(駕籠たて場では駕籠を肩からおろして休むことができたが、他の場所では地面に駕籠をおろすことは許されず、他の場所では杖などで支えていた)
谷に降り、かつては田畑だったと思われるスギの造林地を抜けると舗装道路に出る。そばの大石の上に二体の道祖神が祀られていた。穏やかな表情だがかなり風化しており、長い年月が経過をうかがわせる。
石像は道のすぐそばに埋もれるようにあったものを、大石の上に移動したのだと言うことだ。
近くの道路から2mほどの高さにある桧の造林地、ここには番屋があったと言われており、今もその敷地の石積みが残っている。
ここから御参勤一行は牧渡瀬の渡し場へと向い坂折・六日市・蔵木へと向かった。


今も地元の人々に大切にされている石像
     
 抜月地区に今も残る鳥井伊豆守のものと言われている墓 
 歴史書でも紹介されているが鳥居伊豆守は、長崎新道を開設、また陶晴賢が津和野を攻めた「天文の役」の時、毛利に援軍要請の使者として活躍した
 そのような人物の墓にしては粗末な気もする。
 
後記
おそらく長崎道は古来より峠越えの道としては存在していたのだろう。この地に攻め入った陶(スエ)軍もまだ整備されていないここを通り、三之瀬城を落とし津和野に入ったと言われている。
1955年に着工され2年間の工事で開通、その後参勤交代に使用されたのは開通後60年後となる。さらにいつの頃から新道が開設され、いつ古道から新道に変更されたのかなど不明な点も多い。また同じ吉賀記が元になっている柿木村誌と六日市町史との相違点も疑問が残った。
峠にちかいあたり、戦後伐採されたという巨木の切り株、また架線設置のため利用されかろうじて残された巨木など、ここが豊かな原生の森であったことを物語る証でもある。植林され生態系まで変えられた、森の悲鳴があちこちで聞こえてくる気さえした。
今は高津川(あるいは支流)沿いに道路が走っているが、当時は河川の浸食により急峻な崖が多く、このようなルートで道は造られたのだろう。当時の工事の困難さを知ることができた。

最後に幾度となく行われた踏査に協力していただき、適切な助言ご指導いただいた益田市在住の田中さんに心からお礼申し上げます。