唐人焼
李郎子(りろうし)の唐人焼 窯跡


 
吉賀町柿木村から津和野へ向かうのに峠超えの道を選ぶと、町村境の峠に「唐人屋トンネル」と言うトンネルがある。
このあたりは唐人屋地区。唐人とは中国人を称するが、その唐人の焼いた窯跡が、このトンネルの150m手前のすぐ左に唐人焼窯跡と言われる所がある。

 別名「焼き物戦争」と呼ばれた豊臣秀吉による文禄(1592年)・慶長(1597年)の役で、津和野城主に従軍して朝鮮に渡った福川の三之瀬城主である斎藤一郎左衛門は、蔚山(うるさん)の戦い後、帰国の際陶工「李郎子」(りろうし)を連れかえった。(蔚山の戦いでは多くは明軍だった)斎藤一郎左衛門は朝鮮より帰陣三本松着城の日 興源寺にてなぜか急病死する。一説では毒殺されたのだと言う。
 その後、李郎子を預かることになり、陶器に適した浅黄土のあるこの地「杉ケ峠」(すんがたお)近くにに住まわせて窯を築かせた。李郎子は和名を「又左衛門」と名乗り妻をめとったが子供がなく、養子をとり養子も焼き物を焼いたと言われ、この近くに李郎子のものと言われている墓がある。
 唐人焼の名前について、当時の中国は「明の時代(1368〜1598)」から清の時代、しかし庶民の感覚は「唐の時代(581〜907)」で唐人焼、唐人屋と言われたのかも知れないが定かではない。
 唐人焼は西日本における初期の焼窯で、釉(うわぐすり)をかけた焼物、陶器を焼いた窯としては島根県内でもっとも古いものの一つと言われている。 この窯は当時、朝鮮半島から伝わった新しい形式の窯で、ほぼ同じ時期に唐津・高取・薩摩・萩などの初期の窯も出現したと言われ、うわぐすりはこれらと同じ藁灰釉と土灰釉が多い。

 昭和57年の唐人焼釜跡発掘調査の結果、5室前後の各房を持ち、急な斜面に築かれた小規模な「階段状連房式登窯」と確認され、焼き損じた物を捨てた「ものはら」からは皿・椀・鉢・すり鉢・瓶などの破片が出土した。このことからこの窯では住民の要求に応じた、日常雑器が焼かれていたのではないかと言われているが、子孫に恵まれなかったためか、あるいは他の理由があったのか、焼かれていた期間は短かったと考えられている。


 杉ヶ峠は吉賀町と津和野町の境界の峠で、かつて参勤交代道でもあった廿日市へ続く津和野街道の峠 下記マップ参照 *

また、吉賀記によるとおよそ次のような記述もあります。

 宝永(
宝暦の間違いか)3年の春に徳山の町はずれに全国行脚の途中に宿泊した老婦人、風病の病にて三ヶ月出立できなくなった。この時の話として吉賀記に記されています。
 老婦人は播州赤穂の先の殿様で浅野内匠頭の家来で武林唯七という者の娘で、父は四十七士の一人武林唯七で、先君や亡き父母の菩提を弔うために行脚しているという。
 老婦人の先祖は唐の国の武林王の孫で、慶長3(1598)年に秀吉公が朝鮮を攻めたおり、武林降はその先に立って戦いましたが、岡野弥右衛門に捕った。(蔚山での戦いではその兵の多くは明)軍だった) 岡野弥右衛門は将監と改名し家老職につきました。宋女正殿は武林降を憐れんで、妻を持たせ名前も武林唯右衛門と名乗らせた。
 李郎子という人も蔚山の戦いで捕虜となり三本松城の城主吉見長四郎元頼の手で、斉藤市左衛門に生け捕られ日本に連れてこられ、三本松の傍らの杉ヶ峠と言う所に、朝夕の慰みに焼き物などをして暮らして居ると聞き、『今はどうしているのだろう?』と常々唯右衛門から父親に語り伝えられていた。
 この度、三本松(津和野城は三本松城と言われていた)の所を通りかかってふと思いだし、李郎子の子孫でも居られるかと思い、案内人を雇って杉ヶ峠を尋ねた。そこに人家はなく、見かけた人に子孫なは居ないかと尋ねたところ、子孫はなく、焼き物を寄せ集めた粗末な墓があるのみだった。哀れに思い手を合わせ冥福を祈り立ち去った。
 宿屋の主人も思いがけないことを聞いて、老夫人から聞いた話は「聞き捨てならぬこと」と思い、聞き書きをして毛利候に届け出た。すると、健脚の者2人と銀子を下さって江戸まで送り届けられたという。


年表
 


唐人屋トンネル このあたり唐人屋地区

道路沿いにある唐人焼窯跡

別角度から観た窯跡、県道のすぐそばにある

発掘調査前の全景(1982年唐人焼窯跡発掘調査概報より)

画像は案内板とはその記述内容
史跡
唐人焼窯跡
  昭和55年(1980年)11月)柿木村文化財指定
唐人焼窯跡は、西日本における初期の焼窯でガラス質の釉をかけた焼き物、すなわち陶器を焼いた窯としては県内で最も古いものの一つです。
 別名「焼き物戦争」と呼ばれる豊臣秀吉による文禄(1592年)慶長(1597年)の役で、津和野城主の吉見広長に従軍して朝鮮に渡った福川三之瀬城主の斎藤市郎左衛門は、蔚山の戦いの後、帰国の際、陶工李郎子を連れ帰りました。そして、李郎子をそのまま預かることにし、陶器に適した浅黄土があるここ杉が峠に住まわせて窯を築かせました。これが唐人焼の始まりです。
 昭和56(1981)年度に行った発掘調査の結果、窯体は5室前後の各房を持ち、急な傾斜を持った面に築かれた比較的小規模な「階段状連房式登り窯」であることが確認されました。また、焼き損じ品を捨てた物原からは、皿や椀のかけらが多く出土し、この地方の日用品を供給していたことがわかりました。ここより300m下った場所に李郎子のはかがあります。
                          吉賀町教育委員会


右上段は「李郎子」の墓と言われている。(柿木村誌一巻339ページ)
久我禅定門霊位 寛文二年(1661)六月八日

下段右養子道達の墓と言われている
道達禅定門霊位 寶永三年(1706)十二月二十九日

下段左養子の妻女の墓と言われている
貞円信女霊位 寶永五年(1708)二月二十七日


物原出土品:壷?


物原出土品:椀の底部

物原出土品:釉薬のかけられたもの

物原出土品:素焼きのもの

物原出土品:左回りのロクロを使用

物原出土品:トチン(窯の中で焼き物を置く台)

物原出土品:すり鉢の一部


唐人焼と言われている線香立て(斎藤氏所蔵

旧家に残る唐人焼きと言われている壺

花器 津和野郷土館展示
現地へのアクセスマップ

上地図は国土地理院電子地図上にそれぞれの場所を書き込んだもの印しの場所が窯跡と墓の位置
後記
 赤穂浪士の娘である老女が唐人屋を訪れた年代にも疑問がある。調べてみると武林唯七が赤穂浪士として討ち入った時の年齢は32歳である。かりに唯七25歳の時の子供なら討ち入り時7歳で唐人屋を訪れた宝永3(1706)年には11歳(推定)で年齢が合わない。おそらくは宝暦3年(1753)の間違いであろう。このことは吉賀記に補筆を行った渡邊 寳も指摘している。(柿木村誌1巻でも宝暦3年に訂正している)訪れた年が宝暦3年(1753)なら年齢58歳前後で、当時なら老女と言われたであろうし、行脚の旅も可能だっただろう。

 老婦人、長い間風病を患ったのなら旅は困難だったに違いないが、なぜか毛利の手厚い保護のもとに江戸に送り届けられたと言う不思議。その当時(1753年)「焼物壷など集畦の如くなる墓」と言われたように、粗末なもので現在のような墓ではなかった。いつ誰が立派な墓を建てたのか定かではない。

  唐人焼きがものはらの量の割には製品が現存しないなどから、李郎子の作品が中国製と称して他の地域で高価で流通していたのではないかという疑問もあるようです。つまり、「隠し窯」の可能性もあり、ものはらから出る日用雑器はカムフラージュではなかったのか?
 吉賀記には「李郎子と云唐人和名又右衛門と改名し朝暮の慰に異様の焼物を調住す」とあるが、津和野郷土館展示にある唐人焼の花器のようなものはものはらからの出土品に見られない。

 時代は関ヶ原の戦いで豊臣秀吉から徳川へと変わり、津和野藩主も吉見から坂崎、亀井へと変革の時代とはいえあまりにも記録が少なすぎる。窯跡近くを通る街道は1635年から行われるようになった参勤交代道となり、このとき津和野藩主も利用し、また産物が往き来する重要な街道となった。それに反して衰退したのかあるいは萩へ移ったとも言われているが定かではない。。

 また、この地の方言として「とうじんを言う」などがあり、わけの判らないことを言う意味で使われていた。明の言葉で話す話を理解できないことから言われたのだろう。このことから李郎子と地元の人との接触はあったと思われる。なぜなら粘土の採集、多量の窯焚用木材など一人二人でできる仕事とは思えないからだ。 
 吉賀記にはまた「唐人屋浅黄土 明和の頃(1764〜1770)度々御庭焼御用に成、とあるように焼き物に趣味のある藩主(亀井矩貞)が城内あるいは邸内に窯を設けて茶器などを焼かせたこともあったように、その後も良質の粘土を産した。

 謎の多い”李郎子の唐人焼”もっと掘り下げてみる必要があるのかもしれない。

参考文献:唐人焼跡発掘調査概報 吉賀記 柿木村誌