津和野藩参勤交代道散策(廿日市)

 津和野藩は参勤交代・上方への産物の海路輸送に適した廿日市の一画を借り入れ、舟屋敷を築き、文化・経済の出入り口としての役割を果たした。

以下は広島県廿日市市で見た津和野藩舟屋敷に関係する画像です。
廿日市を訪ねた日(2013年11月16日)は「津和野街道祭り」の前日で、その準備をされていました。
その際忙しい最中にもかかわらず快く案内して頂きました。
おかげさまで貴重な写真を撮ることが出来ました。
本当にありがとうございました。

天満宮から見た現在の廿日市

かつて津和野太鼓谷稲荷神社から分弊した稲生神社

市内に残る当時の海岸護岸の石垣だと聞く

かつての建物を髣髴させる家屋
 蓮教寺にあるソテツ、津和野藩蔵屋敷のものを移植したと言う。説明板にはそのような記述は見あたらなかった。 市内にある石碑、ここに津和野藩舟屋敷があったことを示す「石州津和野藩御舟屋敷旧趾」の石碑。
以下は石碑碑文を記したもの(カナはひらがなに替えている)

石州津和野藩御舟屋敷旧趾

 この地は寛永八年以降二百四十年間の津和野亀井御舟屋敷の趾なり。
もと石見より上方に至るには海路遠く馬関を迂回す。ここに於いて亀井藩は
ここ廿日市の一画を藝藩に借り、御舟屋敷を構え、以て上方往来の要津とせり。
この一画は、東桜尾山側四十間、北側五十三間西本陣側五十三間、南浜川五十
四間内には舘長屋紙倉あり。また、桜尾山を隔ててその東麓には御舟入あり、
常に御用舟数多を繋ぐ。
而して石州の人士、日夜廿日市の人士と接し、所在の文化経済に寄与すること
多年、今有志相謀り、旧地の一画に碑を建て、由来を刻み以て後世に伝うものなり。

昭和五十五年春吉日
宮島口ライオンズクラブ



Google Earthで見た廿日市市

津和野町史に見られる廿日市町絵図参照