2023.10.30 父の遺品整理
通夜、葬式も無事に終わり、先週からゆっくりと父の遺品整理をしております。
昭和一桁生まれで多感な頃に戦争体験を味わったため、恐ろしいほど物を捨てなかった父は、一応整理こそされてはいるものの、こんな物まで!?と思うようなものまで保管していました。
自分の物だけならまだしも、15年も前の甥っ子の自動車教習所に通っていた時の書類一式とか、何でこれを!?と思うような物でも、父にとってはみんな大事な家族の物だったのでしょう。
色んな意味で、涙が出そうになりますが、泣いてはおられんわ(笑)。終らん。
出来れば病気ではなく、老衰で穏やかに苦しむことなく、本人の希望の百歳を超えて逝って欲しかった父でしたが、容赦なく最後の最後に癌が父の体を蝕みました。
まったくぼけることもなく意識もしっかりしていた父でしたので、病の苦しみを真っ当に受け止めることとなって、さぞかし辛かったのではないかと思います。
今は、肉体を捨てて苦しみから解放されて、きっと自由に走り動ける若い頃の姿で、嬉しそうに短歌を作っているのではないかと思います。
そう思うと、嬉しくて涙が出ます。
そうあって欲しいと、心の底から願います。
2023.10.23 父の逝去
10月20日午前3時過ぎ、父が息を引き取りました。
10月14日、病状悪化の為、個室に移されて、ようやっと面会が出来るようになりました。
早速会いに行くと、父はもう声がかすれて聞き取れるか取れないかの状態で、ペンを持たせても読める文字を書ける状態ではありませんでした。
それでも口に私の耳を近づけると、「顔を見られるだけで嬉しい」と言ってくれて、涙が止まらなくなりました。
父は若いころから短歌を熱心に続けており、入院後もなおだんだんと力の入らなくなっていく手で、たくさんの歌を書き留めていました。
それを生きているうちに何とか託したかったのでしょうか、同じく若いころから短歌の道を一緒に精進してきた弟である私の叔父に会いたいと、何度も訴えてきました。
叔父は16日に面会する予定を早めて、私の姉と共に15日に駆け付けて、父の願いを叶えてくれました。
16日には父の妹(私の叔母)、父の姪(私の従姉)、孫(私の姪)と私とで面会することが出来ました。もうその頃には声もほとんどうめき声のような状態でしか出ず、うなずきなどでしか意思の疎通ができない状態でした。
そして死の前日の19日。
その日の面会は、甥っ子と一緒に2時間ほど一緒に居させてもらいました。
声はもう音にもならず、こんな短い日数の内に、階段をズドンズドンと降りるように病状が悪くなっていきました。
腎臓が不全で尿毒症の毒素が脳に回ったのか、もしくは痛み止めの影響か、せん妄状態で嫌々するような表情で腕を振り回したり、はっと正気の表情に戻ったりを繰り返していました。
正気に戻った時には、何か伝えたいことがあるのに声も出ず文字も書けず、とても辛そうな表情をしていました。
私がしばらく頭をなでていると落ち着いて目を閉じていた時もありましたが、正気に戻った時の父の脳は鮮明で、きっと浮かんだ短歌を書き留めたくても出来ないもどかしさを感じているのだろうと思いました。
甥っ子が姉を迎えに行くために帰った30分後、看護士さんたちがおむつのお世話をしてくれるために入室されたのを契機に、私も帰ることにしました。
なんとなく嫌々な表情の父に、「また来るからね」と約束して。
それが生きている父に逢えた最後でした。
その晩、明けて20日午前3時15分。
枕元のスマホが鳴り、姉から「病院から、呼吸が浅くなりましたので来てください、と連絡が入ったので一緒に行こう」と連絡が。
私は長丁場になる可能性を考え、朝の薬を愛猫に飲ませてから自分の車で一人で出るので先に出てて、と告げて急いでその用意と身支度をして、3時35分に家を出ました。
4時過ぎ、病院到着。
父の病室にたどり着くと、姉が「間に合わなかったよ」と。
姉と甥は私より5分前に着いたのですが、実家を出て5分後に車内で、病院からの電話で「今、呼吸が止まりました」と告げられたそうです。
まだほんのり体温の残る父の顔をなでて、涙が止めどなく零れました。
父は思いの外、穏やかな顔をしていました。
2023.10.16 父の病状と、はー坊の耳血腫と便秘
あれからの父ですが、面会が可能な自宅と同じ町内の病院への転院の話は、病状悪化の為、無しになりました。
肝臓の数値自体は安定してきたのですが、癌の病巣のある胆管から胆汁が腸へと流れ、腸を始め他の内臓器官への癌の転移、そして腎臓の数値の著しい悪化(癌の疑いあり)、口からの食事が一切取れなくなり、胸水も溜まり、いつ急変してもおかしくないとの事で10月14日に個室に移され、そういう患者の特例で面会が許可されました。ただ、本人の意識はまだ比較的はっきりしていて、痛みや苦痛はあまり感じないと言っており、それだけが救いです。
今日は親戚を案内して面会に行ってきました。
毎日、電話の呼び出し音にビクついています。
愛猫はー坊の耳血腫は、相変わらずまだ腫れた状態です。その部分に熱もこもるので、時々頭を振っていたりして、気になるのだろうと思います。何とかしてあげたいのですが、どうにも…。
食欲は、以前より量が減りましたが安定した量を食べており、便もその分減り、やや便秘気味ではありますが体調は安定しています。
同じような重い日記の内容で、毎回申し訳ありません。
2023.10.09 父の病状と、はー坊の耳血腫と便秘
父の病状は、胆管の腫瘍が腸へ転移しつつも今は比較的容態も安定しています。今以上の回復する事は今後ないだろうとの担当医師の判断で、面会が一切停止している今入院中の病院から、予約制ではありますが面会が可能な自宅と同じ町内の病院への転院の話が進んでいます。
限られた日々を、出来るだけ父の気持ちに沿うような、身体的にも緩和できそうな状態で過ごさせてあげたいと家族一同願っています。
そして愛猫はー坊は、と言うと。
耳血腫は相変わらずまだ腫れた状態です。
呼吸困難を起こした原因の肥大心筋症の方は、あれからは落ち着いて、無事に今までのように過ごせています。
腎臓病は、新しい薬が効いているのか、多飲多尿の量が減ってこれも落ち着いています。
ただ、食欲不振はまだ少し尾を引いていて、食欲を増進させるウェットフード(腎臓サポート)を毎食前に少し食べさせることで、何とか食べる気を起こさせています。
それでも食事の摂取量が少ないせいで、便秘気味な状態がなかなか改善されず、先週は丸3日間大便が出ませんでした。出ても量は普段の1/3にも満たず、しかもかなり細い便でした。流石にまずいだろうとオリーブオイルを飲ませたところ、何とか通常の半分くらいの便を出してくれました。しかしまだ全然油断は出来ないので、自力である程度スムーズに出るよう、しばらく休み休みオリーブオイルを続けるつもりです。
昨日今日と、普段にはない不慣れな用事をこなしていたので、めちゃめちゃ眠いです。
連休も終わって明日から平常に戻るので、今夜は早めに眠ります。おやすみなさい。
2023.10.02 はー坊の耳血腫と肥大心筋症の症状発症
父の病状は、先月転院先の病院で下血があって無事処置されてからは、安定しているのか病院から連絡がありません。コロナの関係で面会が 完全禁止になっているので、頼みの綱は病院からの連絡ですが、それも無いのでどうにもなりません。
とりあえず連絡が無いのは、無事だからなのだろうと思う他ありません。
コロナの馬鹿。許さん。
さて、愛猫はー坊の事。
先週金曜日早朝。
起きたら愛猫の左耳が不自然に垂れていたので、寝癖かな?と思い正面から見ると、耳の中がパンパンに腫れていて、息を呑みました。
一度仕事に出て用事を済ませてから、同僚には午後には戻ると言い残して抜けて、急ぎ帰宅しはー坊を連れて病院へ。
途中、はーの呼吸が異常に荒いのに気づき、これは心臓だと直感し、焦りを押さえつつ病院に到着して、窓口で症状を告げ、息が治まるようなだめながら順番を待ちました。
診断の結果、呼吸の荒い原因は2年前に診断されたけど無症状だった肥大心筋症の、初めての発作でした。
耳の腫れは、はーが自分でかゆくて掻いていたら、耳の皮膚内部の血管が破れ、血が漏れ出て薄い皮膚に充満している状態でした。
はーは腎臓が悪い為、この症状に有効なステロイドが使えません。先生はインターフェロンを注射する事で対応されました。
心臓の方は、今までの腎臓の薬「セミントラ青」を、心臓と腎臓に効く薬「ラプロス」に替える事で対処する事になりました。そしてこれをまず1錠、病院で飲ませてくれました。
診察中に何とか呼吸の荒さも治まってきつつあったので、少し落ち着いて帰途につきました。
更なる発作が起きることがないか不安だったので、職場には電話でこのまま休む旨を伝え、その日は様子を見守ることにしました。
で、発症から今朝までの3日間で、食欲減退による体重減270g(人間にすると2.7キロ)等ありましたが、今日は少しだけ元気になってきています。
私も父の入院に加え、この度のはー坊の顛末からか、何年ぶりかで閃輝暗点が出ました。
金曜日に軽い頭痛がするなと思っていたら、土曜日の朝、目の前にギラギラしたものが回り始め、でもほんの10分ほどで消えました。ちょっとしばらくは気分悪くなりましたが、結構あっさり治りました。
倒れてられんので、頑張らねば~。
そんなこんなで週末にパソコン立ち上げる気力が無く、拍手メッセージへのレスが遅れておりまして申し訳ありません。tomo様、もう少しお待ちを!!そしてしっかりとお大事になさって下さい!! |