高津川(吉賀川)の地名 柿木〜下須
高津川は日原から上流は吉賀川と言われている。
ここでは柿木から下須までの川の地名を掲載しています。
左マップは高津川柿木〜新畑付近までの大まかな位置を示したものです。




相生橋から撮影、下流の橋は国道187号線、赤い橋のすぐ上流はかつて渡し場があった所、不思議なことに誰に聞いても渡し場の名前は知らないと言う。唯一オノノシタ(小野姓)と言う名の淵が聞かれた。
鮎漁をしているあたりには、木造の旧相生橋があった場所でもある。

ハマゴ 柿木郵便局の裏側あたり、この淵は二つに分かれていて画面中央より右(上流)がハマゴで左(下流)がクリノキブチという。


オオナンコウ(オオエロ) 道の駅かきのき村から下流方向へ約500m国道下にある長い渕を言う。下流の橋は小野原橋。

ナベブチ 柿木アポロ裏にある淵を言う。名前の由来は不明。


サンガイミズ 道の駅から約800m下流の国道下画面中央。この地名由来は不詳三階水あるいは三害水か不明、町内には三害水という、人が呑んではいけないと言われる谷も存在する。流の奥の淵はナベブチで手前はフナトになる。

フナト 白谷にあり下流の橋は古迫橋この橋上流150mほどの位置にあり国道下の淵を言う。地名由来は舟渡(フナト)で対岸の圃場、人家への往来は舟で渡ったのだろう。


ヒャクダ 白谷地区の古迫橋下流付近を言う。地名由来は不詳。ここから約150m下流でシダオ谷川と合流するがそこから下流をアオイシと言う。アオイシの地名由来はわからなかった。

オカノオキ 白谷の沖河内(オキガワチ)集落の沖にある淵を言う。近くにオカの屋号があり、その家の裏の淵でこの名で呼ばれている。


ヤナトコ 沖河内集落のはずれに中国電力の流速を計る場所がある。
画面右あたり、このあたりにヤナトコ(落ち鮎を捕る仕掛け)があったのだとと言う。それがここの地名で呼ばれるようになった。この下流(矢印位置)の右岸に大きな岩(本当は転石)があり、石の上部が下流に斜めに傾いている。このあたりを
ナナメイワと言う。


コツ(骨) 大井谷川に掛かる白谷橋から下流方向へ約250mの所に杉山橋が高津川上に掛かる。その下の淵を言う。コツの地名由来は骨があった事によると聞いた。
ハシノセ コツの淵下流は瀬になっていて、杉山谷川が右岸から合流するあたりを言う。この付近は原手地区の堰があったとも言われ、またヤナトコも言われヤナ漁がされていたとも言われている。

ナガブチ 法師渕集落の前を国道187号線が通り、その沖の淵を言う。法師渕の名と思ったが全くの別名、この淵上流付近に岩が水面から顔を出しているがこれが坊主岩(画面右側の岩)で下流の少し小さい岩が烏帽子岩、さらに30m下流左岸にある大きな岩はタカイワという。
柿木村誌に法師渕の地名について次のような記述がある。
この近くに寺があったという。その寺に坊さんが住んでいたが、あるときその坊さんは猟師より肉を取りよせて食べたと言うので、門徒や信者達がやかましく責め立てたのである。ところが坊さんは「私は破戒をしてない。肉食はしていない」と言い切ったが、門徒達はどうしても承知しない。「食べた」「食べない」と激しく言い合った末に、坊さんは肉を食べてない事を証拠立てるために、自分の使っている箸を川に流し、その箸が下流に流れたなら食べないことになるが、もし上流(カミ)に流れたら、その時は肉食をして戒めを破った事にして、そのまま入水自殺しようと言う話になった。そこで人々は坊さんを川端に連れて行って、石の上から箸を投げたのである。しかし、どうしたことか箸は上流に向かって流れ、岩に吸い付いてしまった。結局「それ見ろ、肉を食ったのだ」と言うことになり、坊さんは仕方なく、そのままその岩から身を投げたのである。今もある坊主岩がそれである。瀬尻にある岩でそこは流れが逆流していたのだろう。
法師渕の名のついた川は存在しなかった

ウズ 法師渕地区対岸に架かる甲島橋の下にある淵を言う。ここは河川改修により露出した岩がありこれにより渦が出来るためにこう呼ばれていたという。現在は露出した岩盤は取り除かれ、渦は見られない。水面下に見える平らな岩盤がそれを感じさせるに過ぎない。

コケイシ
 甲島橋から国道を下流側へ約300m下った所に田んぼがあるがその沖に大きな淵を言う。田んぼの穂野記名もコケイシだったと言う。
ミソガセ 道路から離れていた高津川はコケイシから再び国道下に流れてくるがその瀬を言う。地名由来漢字名不詳


サイノカケ 中国電力の日原水力発電所の取水設備の上流側の淵を言う。取水堰上流50mは禁漁区となっている。更にこの堰下流182mまでも禁漁とされている。182mは目印となっている右岸にある岩までの距離だと言うことだ。


ワタ淵 原手地区圃場の中にある集落の沖にある淵を言う。ワタ淵は渡る淵から来ているのだろうと言うことだ。
前後するがワタフチの上流150mほどにカジヤ淵と言う淵がある。原手地区にあるビニールハウス群、その沖にある淵を言う地名由来は不詳。


タキアナ 釣川橋(かつては吊り橋)下の淵を言う。かつての道路はコンクリートのアーチで出来ていて、穴状になっていたのでそれでと言うことだ。
ヨレ 釣川地区にある下須自治会館その上流200mほどにある幅の狭い淵を言う。地名由来不詳。
ガンツリ 釣川橋下流30m道路下の淵を言う。道路改修により様相が変わったと言う。

カイノキ淵 下ヶ原地区圃場沖にある淵を言う。右岸に岩肌が露出し渓谷の様相を見せてくれる。鮎の好漁場らしく釣り客も見られた。


カベこの渕は画面中央の狭いところを境にウエカベシタカベと二つに分けて呼ばれている。かつて筏流しが行われていた頃は、ここも難所の一つだったと言う。
地名由来不詳。


この案内板は平栃の滝入り口に立てられている。是より下流はこの地名が左岸にありよくわかる。
ヒャコリ場 ヒャコルはこの地方の方言で、遠くの人に気付いてもらうために出す呼びかけの声で、トーンを上げ大声で「ヒョーイ」と言ったような発声。下ヶ原集落の人が対岸の柿木谷集落の人にヒャコリ、気付いてもらうと聞き耳を立てた相手に大声で用件を話しかけたのだろう。
口屋は外部からの入り口にあり、関所のような意味を持つ場所で当地でも数カ所その名が残る。

ワタセ
(渡瀬)舟での渡し場
牛渡瀬 少し浅い瀬になっていて、ここは牛を対岸に渡すときに歩かせて渡した場所なのだそうだ。
中岩 ヒャコリ場付近の川中にある二つの水面から露出した岩を言う。
三郎淵 浅い淵は中渡瀬とも言い、舟で往来したという。このあたりの左岸に口屋の地名がある。

ツルモドシ(鶴戻し)吉賀町と津和野町の境界になっている大谷谷川ある。この谷川に架かる国道橋から下流方向に180m下った道路下の淵をいう。境界は川の中心にあり、そのまま門戸まで川の中心を境としている。
柿木村誌よると筏流しの難所の一つとして、新畑の「鶴戻し」の名がある。現在では「ツルモウシ」と言われている。

川とのかかわりが薄れて行くにつれ、名前も少しづつ変わっていくのだろう。

スナゴ 新畑から450m国道を下った道路沖にある。木立がありよく見えない。この渕の左岸は岩盤になっていて、その上を赤谷の水が流れる。その岩に馬のたらいなどの旧跡がある。
スナゴから約200m下流左岸で景勝地平栃の滝からの流れが合流する。


地震岩 新畑同門を抜けて80mほど上流に行った道路下の川縁の大石を言う。いつの地震かは不明だが、地震により転がり落ちたのだそうだ。
過去の大きな地震は西暦1675年の地震、この時は津和野城の石垣が崩壊、また西暦1852年11月(約160年前)当石見地方を襲った大きな地震、外に西暦1872年(明治五年)などがあるが不詳。
。洪水時の摩耗痕をみても相当な年数を経過したと感じた。
6m×4m×4mほどか?もっと大きいかも知れない。場所としては津和野町側に入る。


モンド 新畑同門の沖(西)にある。ここで高津川は方向を90度以上変える淵があり、この淵の名前がモンドであり、この瀬の左岸に小谷があり、新畑から川の中央を境に流れてきた川もここから下流は津和野町。津和野町側に地蔵様がある。山伏風の旅人が亡くなり祭られたという。願いが叶うと昔は近辺から参る人が多かったそうだ。左岸に続く道、ここは吉賀町、益田方面との往還でもある。まさに吉賀への入り口、天然の門戸(モンコ)であることは間違いないが、地名として門戸を使用するには調査不足のようだ
上に門戸と記したがこの字を使用する文献はまだ見あたらない。門戸の一般的な読み方は「もんこ」である。「もんど」と言えないこともないが調べるの必要がありそうだ。