津和野藩参勤交代道
唐人屋〜柿木〜伊豆師

上の地図はこのページで散策した範囲
 唐人屋を過ぎるとほぼ現在の道路敷に街道は消える。福川川を渡り急勾配の道路を下っていくと左に小さな谷が現れる。
この谷は「三害水(さんがいみず)」と言う。村誌によると一昼夜に三度毒水流れ云々、諸人呑む事なかれの記述がある。旅人もこの水は飲まなかったことでしょう。

ここの道路下に街道は現れる。さらに下っていくとループ橋が現れるが、その下に見える集落が折橋地区でここでも道路をトンネルで横断した街道を見ることができる。
→道幅は1.8mほど両側はかつての田んぼの石垣で、今でも軽トラックなら十分入れる道があった。

この近くにも石仏がありその顔は著しく損傷していた。これは案内していただいた方が畑の作業中に拾い出したそうで、これも廃仏毀釈の被害で破壊され捨てられたのでしょうか?。
 折橋地区から数百メートル下ると、福川川に長さ10mほどの小さな橋がある。
「念佛橋(ねんぶつばし)」の名前の言われを聞いてみると二つの説があるようだ。

昔は谷底はもっと深く、橋は高く恐怖を感じるものだった。そこで念仏を唱えながら渡った。

もう一つは少し下流に小さな滝があり、その水音がこの橋の上で念仏を唱えているかのように聞こえていた。


現在は下流にある砂防堰堤により土砂が堆積し河床が上がっているのは確かで、昔は河床は低かったようです。

福川」の地名については豊富な水の流れる川からついたと言われています。
 次に見えてくる集落はかつての福川村口屋地区、口屋の地名はここに番屋があったと言われ、旧柿木村でも他から通じる道にそれぞれ口屋の地名が残っている。
ここにある石仏(いしぼとけ)は旧街道沿いにあり、子供の夜泣きが直ると言われ、今も時折人が訪れると言う。
右の画像は一軒の旅籠があった場所で、お客と女将との面白いやりとりが伝えられている。
お客が朝起きて「・・・・・、布団短し、夜は長し、尻から風が、福(吹く)川の宿」と詠んだ。それに対し女将は「布団は五尺にきまったものだ、それはおまえのスネが長いからだ」という意味の反論を狂歌で返した。江戸時代に大流行したと言われる狂歌が、このような田舎まで伝わったのも街道の往来が頻繁だった証ではないでしょうか。
 福川地区の民家裏に残る津和野街道、石垣は昔からの物で今もしっかりと山を支えている。

ここから約100m下ると小さな尾根があり「おさきだお」と言われている。ここに直径1mほどのスダジイの木がある。
その下に街道跡を見ることができる。スダジイはこのあたりには自生しない木であることから、おそらく一里塚として植えられたのではないかと思われます。

ここを過ぎると県道三号線(新南陽日原線)との三叉路にでる。

 福川から三之瀬に向かうと高津川支流の福川川が道路にぶつかるように出会う。街道は浸食された崖を避けるため20mほど上に見ることができる。
画像の場所の右側には川を挟んで木立越しに三之瀬城址を見ることができる。三之瀬城址より少し低いだろうか、下には県道が見える。

江戸時代初期には参勤交代はこの少し先から福川長崎谷にはいり、抜舞に出る標高720mもの峠を越える長崎新道を通っていたが、1699年最後の難所だった田丸付近の道が開通し、以後は柿木まわりとなった。

(長崎新道は別のページでも紹介しています。)
 三之瀬地区を過ぎると街道は現在の県道に消える。亀田・伊豆原とほとんど旧街道は見られない。
栗木地区に県道とははずれ、山沿いに街道は確認できる。
旧福川村と旧柿木村の境界は大境(おおざかい)付近で県道すぐ上に残されているが坂本に入り再び見失う。
中原地区では山沿いに街道はあったと言われるが、圃場整備などでその面影は見ることはできない。
中原から続く街道は現在の柿木小学校裏で再び姿を見せてくれる。
ここから少し進むと高津川に出る。
 柿木地区は高津川によって南北に分かれているが、その河畔にすばらしいケヤキの巨木を見ることができる。街道が高津川沿いになる所から始まるケヤキの並木はその頑丈な根の張りによって浸食を防ぎ、街道を守るためのものだろう。多くの旅人を見守ってきた巨木は今も河畔に林立する。
早朝、津和野を出発した参勤交代一行はこの並木にかかる前に柿木庄屋で昼食をとった。庄屋下瀬家は現在のJA柿木支所の倉庫付近にあったと言われている。
このケヤキの河畔林の終わるところ、赤い橋の上流(手前)に渡し場があり川船で対岸へと渡った。

 津和野藩の参勤交代は、江戸初期には福川から長崎新道を越えていた。田丸の岩壁の開通により柿木を通るルートになった。この場所の渡河は橋が架けられていたが水害で流失、その後架けた橋も焼失し、以後川船による渡しとなった。
 伊能忠敬測量日記によると「柿木川船渡し二十七間」とある。

また、この渡し場は津和野藩特産上納紙の見取りをめぐって起きた事件で、無実の吉松仁右衛門、治右衛門、十左衛門父子の処刑を救おうと江戸の藩主に訴えた。藩主の「帰城まで処刑は待つように」と言う書状を持った使者がこの渡しにさしかかったとき、悪人らのわざと川を濁すという卑劣な川止めにより遅れた、そのため処刑を止めることができなかったと使者は自害したと言う。まさに時代劇ドラマさながらの舞台でもある。

 南側の対岸へ渡ると現在駐在所があり、その下流側に小さな峠に向かって続く道は現在も農道として利用されている。

この峠を越えると国道187号線にでて夜打原に入る。
夜打原は一説には平家が敗走中に源氏の夜討ち遭ったとも言われるが、村誌では近くの黒瀬山に住む悪党等にたびたび襲われた。よって夜打(討)原と言うとある。
 左画像は夜打原を過ぎた所で字「犬戻」また「カケダナ」ともよばれるあたり。
ここは「高いところに道がある」と聞き調査した。急斜面で下の国道に落石させては大変と、注意して探し歩いたが街道跡らしいものは見つけることができなかった。
川までせり出した急峻な崖、大きく上に廻る道があったのだろうが、街道はおそらく現在の道路あたりにあり、道路幅の確保ができないところは支柱を立て、桁をのせそれに木を横に並べたいわゆる「掛棚(桟道)」があったのだろう。

かつてまだ道路改良が行われない頃、山里に向かう道でそのような桟道はあちこちで見られた。

 月瀬地区には現在の国道から少しはずれ、津和野街道がよく残されている。
画像は街道跡をシイタケのホダ場に利用されているが、よく手入れされている。
 先ほどの画像の場所から少し行くと、ウラジロガシの巨木が街道から数メートル上がったところにある。胸の高さで周囲が6.05mもある巨木は一里塚だったと聞いた。
ここらあたりは高津川に注ぐ谷川を横断するため、大きく谷に沿って入り込み下りながら谷を渡ったようだ。
対岸から見た月瀬付近、赤い線は街道跡。国道187号線左は柿木方面、右は六日市方面。
 谷を渡り高津川沿いに出る所に三体の地蔵が祀られている。このうちの一体が「お市地蔵」である。あばら屋に住み、まれに見る美女だったと言われる「お市」は、ここにある断崖から身を投げ自らの命を絶った。
 お市地蔵は元々少し離れた断崖の上にあり、近年の道路改良によりこの場所に安置されたそうです。離れた場所にあり明治の廃仏毀釈の被害を免れたのでしょう。
頭のある中央の石仏がお市地蔵です。他の二体は頭がなく、あるいは後に作られたものです。

 国道187号線から十数メートルの高さ、ここから先もほぼ同じ高さで続く道を見ることができる。訪れたときは地籍調査が行われヤブが刈り払われた後で、往日をかいま見た気がした。
 木部谷川を渡り現在の国道上に街道はあったのだろうか?。

 伊豆師地区に入り国道改良工事で岩盤を切りとった尾根は愛宕山で、愛宕大権現があり後に愛宕神社となり、現在では三島神社に合祀されたその跡があった。

 三島神社跡下の平地には、愛宕大権現時代の名残なのだろうか、六地蔵が安置されている。この地蔵もやはり首が破壊されている。
街道はこの六地蔵の前を通っていたと言われている。
 伊豆師地区の国道から左にある道を50mも登ると、そこに津和野街道はあった。
道路からの高さは15mほどだろうか、近くに墓地もありきれいにされている。道の向こうから当時の旅人が突然現れるのではないかと思うほどよく残されている。

 この先は旧柿木村と六日町との境界があり絶壁が続く、そこは難所だったと思われ、そこの開通により参勤交代は長崎新道から、柿木を経由する高津川沿いの道に変わったと言わてれる。