津和野藩参勤交代道散策 (津和野〜唐人屋)
 江戸時代に始まった参勤交代により津和野街道は整備された。右の地図のように藩邸を起点として町内を南下し、小さな小山の「丸山」下を通り南谷渓谷へと向かう。中国自然歩道の景勝地でもある南谷を過ぎると石橋を渡り元笹山へ入る。一行はここの茶屋で一休み。木野集落から峠に向かうが途中籠立てがある。峠を越えるとそこは唐人屋。
 旧津和野藩主亀井家の藩邸があった場所で、当時の藩邸は南北に300m東西に140mにわたり建物や庭園が築かれていた。明治の廃藩とともに建物は解体され、敷地の一部は現在の島根県立津和野高校のグランドになっている。
 現在残された庭園の一部は「嘉楽園(からくえん)」と命名され公園になっている。
参勤交代はこの地から隊列を整え出発したのだろう。
 藩邸跡を出発するとすぐに津和野川に架かる御幸橋(みゆきばし)を渡る。橋に当時の面影は感じられないが、欄干のギボウシュは当時の名残なのだろうか。
御幸橋を渡るとすぐに左折して津和野川沿いに上流へと向かう。
河川工事で往時を感じさせるものはないが、川の流れの中に大きな鯉が餌を探して泳ぎ回り、水際には白鷺が小魚をねらってじっと川面を注視している様子などが見られる。
 川沿いに500mほどさかのぼると小さな鉄骨製の常盤橋が津和野川に架かっている。かつてはこのあたりに渡し場もあったようだ。
ここを左折して森鴎外旧居のある通りに入る。

時代によりルートは変化していたようで、他の町史には御幸橋を渡り左折して津和野川沿いに下る。大橋南詰めを経て森、横堀、小坂へのルートもあったようです。

 明治・大正を代表する文豪森鴎外(森林太郎)は1862年この家に生まれ17才までこの家で過ごした。
家屋は1854年の大火の後に建てられたと言われている。
森鴎外旧居を右手に見て進むと今は主要な道路になっている道路を横断し進むとT字路に突き当たる。ここを右折する。
 南に向かう道は緩やかな上り坂になる。左手には町立津和野中学校のグランド、右手には古い土塀のある民家がある。参勤交代の行われていた時代のものだろうか?

←さらに進むと左手に大きな蔵が現れその先の軒先に杉玉が吊られている。杉玉は日本酒の造り酒屋が新酒ができたことを知らせるための看板のようなものだったと言う。
街道はこの酒屋のかどを左折する。
 造り酒屋材間酒場のかどを左折すると左手に大きな石を積んだ石垣が現れる。現在は公園になっているがここは高崎亀井家跡でここらあたり武家屋敷があったところ。
南東方向に向かう道は道幅3mほど、しばらく行くと山口線の鉄道を横断する。
 踏切を渡ると右手に見える小さな山は「丸山」で神社がある。
さらに250mほど進むと道は2つに分かれる。左は国道9号線
にでるが、街道はほぼ直進し南谷渓谷へと入っていく。
 2mほどの道を入っていくと道の左側には用水路、左は杉の造林地になっている。段差のある造林地はかつて水田であった証。現在の南谷川には幅1mほどの橋が架かっている。
このあたり豊富な水を利用して小水力発電所があったと聞く。
ここからの街道は、左に南谷川を見て進む、高低差のあるこの谷川はいくつもの滝があり景観がいい。ここは中国自然歩道にもなっているが、この中国自然歩道が街道の跡なのだ。


景勝地南谷渓谷に残る街道跡

標高差のある渓谷は多くの滝を見ることができる。
 南谷渓谷を過ぎて元笹山に入る手前に石橋がある。県道のそばで案内板があり以下の記述がある。

「笹山の石橋は津和野藩参勤交代道の中でもっとも歴史の道に相応しく往時を偲ぶ唯一現存するのがこの石橋です。長さ4.2m幅1.2mの橋は本体の重量を軽減して外圧にも耐えるよう工夫が施されています。笹山水害で上流川の橋は流失していなければ幅2.4mほどの立派な姿が現存しているはずでした。」

この橋はすぐ近くにある青野山(トロイデ火山)から噴出した安山岩と思われます。
(石橋の場所34度27分12.6秒 東経131度47分05.8秒付近)
 石橋を渡ると道は一度折り返し元笹山へ向かう低い尾根を越える。標高410m、尾根の峠に立つと前方には元笹山地区の集落があり、その背後に青野山がそびえる。もし集落の屋根を藁葺きに変えたならば、往時と変わりない桃源郷が現れるのではないかと思う。
この地点、三叉路になっていて、右の林道をたどると法師山を越え柿木村椛谷へも古道は続いていた。

 手前の家は笹山の庄屋を代々勤めた長峯家。昭和初期火災により建て替えられているが、庭は青野山から出る安山岩を豊富に使い、往日を髣髴させる。

舗装された道路をは街道をかたどったもので、道路を挟んだ杉林の中には茶屋があったと言う。参勤交代の一行はここで小休み。

この地区にある屋号で茶屋と言うのがあるが、参勤交代時代の茶屋とは関係ないようだ。しかし現在の県道に近いルートに変更された後の、茶屋だったのかも知れない。
 庄屋屋敷と茶屋に挟まれた道を過ぎると、山沿いの民家の下にその道は残る。
今は農道としても使われてないようだが、形、幅とも往日のものだろう

山林と水田とを分けるように進み、道は谷川へと向かう。

谷川には現在は鉄骨の橋が架かり道は現在の県道へと向かう。

 街道は現在の県道に出る。ちょうどここは青野山の笹山登山口でもある。登山道の始まりは街道でもある。街道は県道の法面の上にありすぐに登山道とはすぐに分かれる。

 画像右端の白い立て札、下の矢印に「参勤交代路 亀井家 1635〜」の記述。
 青野山登山口を過ぎ木野(この)の集落に入るところで道は二つに分かれる。直進する道路は県道、右折すると大規模林道になる。旧街道は県道になっている。木野集落には昭和の終わりまで笹山小学校もあった。

 このあたり街道はほぼ現在の県道に沿ってあったようだ。
←画像は上り坂の道になりこの集落最後の家を過ぎると、右側に小さな道がありる。
この道は200mほど行くとこの地区の簡易水道施設につづいているが
途中にある杉の造林地はかつての水田でその中に街道跡はあった。
 簡易水道施設から作業道は奥へと続いているが、街道は水道施設の所を左に20mほど行くと街道はヤブの中に続く。

→人が通らなくなってどれほどの年月が経過したのだろう。道は雑木や笹でおおわれているが、道跡だとははっきりと確認できる所もある。ヤブをかき分けやっと通れるほどのヤブもあった。
 木野集落から距離にしては800mほどだろう。ヤブをかきわけ進むと籠立場ある。以前地元の人の話で籠立場があると話には聞いていたが、ここに間違いないだろう。
 小さな尾根だが約400uほど平らになっているが、これは人工的に造成されたとしか思えない。北側には青野山が目前に広がり、裾野には木野の集落も見える。
ほぼ西の方角にある津和野城跡は小さな山があり見ることはできないが、津和野の象徴でもある青野山を間近にみる最後の場所でもある。
再び見ることができても一年半後、二度と見ることができないかもしれないという思いもあったに違いない。

(籠立て場所北緯34度27分05.1秒東経131度48分18.8秒付近)
 籠立場てから数百メートル登ると峠に着く、ここが杉ヶ峠(すんがたお)で現在の吉賀町津和野町の境界でもある。
  現在は杉の木は見あたらないが、かつては杉の大木がありこの地名になったのだろう。
ここは津和野町と吉賀町の境界でもある。
→画像向こう側が津和野町で手前側が吉賀町になる。

 籠立場て跡も休憩に適しているが、この峠でも多くの往来の人がしばし体を休めたのでしょう。

(杉ヶ峠場所北緯34度27分00.5秒東経131度48分23.0秒付近)
 峠を少し下ったところにある石仏、街道から左に少し上がったところに鎮座している。その首は後から付けられているように見えるが、これは明治時代の廃仏毀釈の被害と思われる。
この地方の多くの石仏がこのように頭をなくしている。

 このあたり春先には雪崩も多く発生したと言う。犠牲者の慰霊のための石仏なのかもしれない。

 この石仏に続く石段の脇に大きなアシオ杉が左右にある。植えられたものに違いないが、杉ヶ峠にもこのようなアシオ杉の大木が茂っており、この杉はおそらくその苗木を植えたのではないでしょうか。

→画像中央、稜線の鞍部が杉ヶ峠で、下ってくると一軒の民家(廃屋)のそばを通り大規模林道に出る。

ここは「唐人屋」と言う地名。かつて豊臣秀吉が朝鮮に攻め入ったときに連れ帰った陶工が住み、この地で唐人焼き(日用雑器)を焼いていたことから付いた地名。陶工李郎子(りろうし)の墓は道路沿いにあり、窯跡も近くの道路沿いにある。


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