2023年 11月26日 王であるキリストの祭日
王であるキリストの祭日 (マタイ25:31−46)
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは
わたしにしてくれたことなのである
1988年12月7日の長崎市議会で本島等市長は共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、
「天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならない」という趣旨の発言をしました。
しかしこの発言はマスコミ各社によって「天皇の戦争責任はあると思う」という部分だけが強調されて報道されました。その当時、昭和天皇の容体が著しく悪化しており、天皇を批評するような発言は控えるべきだという考え方がありました。
それで市長は右翼に銃撃されて重傷を負い、長崎市立病院に入院されました。入院中に死に直面した時の思いを手紙に認めて、市民、病院関係者、市職員と激励の電話、電報、手紙を下さった全国の人々に感謝を述べられました。
その手紙の中で、銃撃されピストルの弾が左の胸を貫通し、たくさんの血があふれ出た時の心境を次のような内容で認められています。
「・・・ああ、これで私は死ぬんだなと思いました。そして日頃考えていたように、こんな時は小さなことを考えないで、神から与えられた品減の使命、それは困っている人や苦しんでいる人に、どの位の事ができたかなという反省でした。また神の教えに、そむいたことに許しを求める祈りでありました。・・・・」
本島市長の言葉は今日のマタイ福音書のメッセージの反映にほかなりません。世界中で戦争や争いの報道がなされ、無垢な人々の苦しみや死が報道されているときに、今日のイエスの言葉に心の痛みを感じざるを得ません。少なくとも祈りで、苦しんでいる人々に寄り添い、自分の小さな生活と、犠牲を捧げていきたいと思いました。