教会案内
現在の津和野教会は、信者数70名ほどのこじんまりした共同体ですが、乙女峠を訪ねる全国からの巡礼者・訪問者も多く、主日のミサ後にも、よく訪問者との交流が行われています。また、毎年5月3日には、教会にとって最重要の行事である、浦上四番崩れの流配者たちの信仰の遺徳を偲ぶ 「乙女峠まつり」が開催され、乙女峠広場や駐車場、せせらぎの道などの整備や掃除をはじめ、巡礼者の受け入れとおもてなしに、信者一同で心を配っております。教会の敷地内には乙女峠展示室があり、浦上四番崩れの歴史が紹介されています。また、「乙女峠友の会」 の事務局も置かれており、会報「せせらぎ」が年数回発行されています。
教会は、津和野の町の中心部、本町通りに続く殿町の入り口にあり、休日には多くの観光客が訪れます。教会に向かって左隣は 「津和野幼花園」で、平日には隣の園庭で子供たちの元気な声が響きます。
2013年5月3日の乙女峠まつりにおいて、広島教区前田万葉司教 (現大阪高松大司教区大司教、枢機卿)によって乙女峠の証し人の列聖運動開始が宣言されて以来、列福に向けて教区を挙げて運動を続けています。
津和野教会の歴史
(1)前史
レオン・パジェス著 「日本切支丹宗門史」第12章1610年の項に、「石見では某大名の家臣は、主人から信仰を捨てるよういろいろ誘惑されたが、結局三人の息子と一緒に殺された」 とある。当時の大名は関ヶ原の戦いで勲功のあった坂崎出羽守で、1601年に津和野城主として入城していた。彼は熱心なキリシタンとして宣教師の報告書にも書かれている人物であるが、当時は信仰から離れていたようである。津和野永明寺にはいわゆるキリシタン墓と言われる墓碑が数基あり、キリシタンが存在していたと思われる。
(2)初期
津和野教会は、パリ外国宣教会所属のエメ・ヴィリオン神父によって礎が築かれた。神父は1868年長崎に上陸したが、1870年には大浦天主堂から浦上の信者たちが名古屋、金沢、萩、津和野などに配流されるのを見送ったという。津和野には153名の浦上キリシタンが配流されるのを見送ったという。津和野には153名の浦上キリシタンが配流され、厳しい迫害により、37名が信仰の証しとして殉教した。
ヴィリオン神父は1889年山口に赴任し、防府、徳山、下関などを巡回布教した。宣教活動の傍ら、キリシタンの史跡の調査研究も積極的に行い、1891年に、津和野に殉教者の墓碑を建てた。1892年6月22日、俵繁次、大谷倉蔵の二人の青年に洗礼を授け、津和野に布教所を設けた。その後1895-1908年の間、主任司祭として萩に滞在し、萩・地福・津和野など近隣に積極的に布教活動を行った。1922年には乙女峠に殉教者の記念碑 「信仰の光」 を建立した。
(3)広島代牧区時代
1923年、大阪司教区から分かれ、中国五県が広島代牧区として設立され、ドイツのイエズス会に委託された。ヴィリオン神父の後任としてヴェッケレー神父が任命され、以後イエズス会の神父たちが津和野教会の主任司祭として活動している。
1931年、ドイツ人シェファー神父によって現在の聖堂が建立され、「幼いイエズスの聖テレジア」 に捧げられた(後記参照)。1951年5月11日、ネーベル神父により乙女峠マリア聖堂を献堂。翌年から毎年乙女峠まつりが開催されている。また第3回のまつりから憲法記念日の5月3日に開催されている。毎年秋11月3日には、蕪坂にある殉教者の墓地巡礼も行なわれている。
(4)広島教区時代
1959年広島代牧区は広島司教区に昇格し、初代司教に野口由松神父が任命された。1985年乙女峠から蕪坂の殉教者墓地まで「十字架の道行」が作られ、殉教者を偲ぶ祈りの場となっている。
1992年11月には教会創立100周年を祝い、また1996年津和野教会が、2010年司祭館がそれぞれ登録有形文化財に指定された。
2013年5月3日、乙女峠まつりのミサで、前田万葉司教 (現大阪・高松大司教区大司教、枢機卿)により、津和野の37名の証し人の列聖運動の開始が宣言される。
2020年10月から聖堂の保存修理工事が行われ、2021年9月19日、広島教区の白浜満司教による竣工祝別式が行われた。
聖堂について
1931年シェファー神父の時、長崎大工棟梁川原正治によって建造され、1931年10月4日ロス司教により神の家として献堂された。ファサード(建物正面)にゴシック調を模した意匠を持つ建物は、単塔式木造平家建切妻造で、内部に一部2階となるバルコニーを持つ。外壁は木ずり下地ラスモルタル塗の上、彩色仕上。現在はその上に吹付材が施されている。開口部は木製ガラス戸でステンドグラスが入る。平成8(1996)年、国の登録有形文化財として登録されている。2020.10〜2021.7 に屋根の吹き替えを含む大改修が行われ、現在の姿になった。