乙女峠広場入口
パウロ・ネーベル
(岡崎祐次郎)神父
津和野教会主任司祭
1946〜73
乙女峠について
キリシタン殉教地 「乙女峠」は、明治新政府によるキリシタン禁令によって、1868年(明治元)と1870年の2度にわたり長崎・浦上のキリシタンが配流された場所の一つです。旧名乙女山にあった廃寺光琳寺が、キリシタンたちの収容場所となり、ここで飢餓責め、水責め、雪・氷責め、三尺牢への幽閉などの拷問が行われ、37名が信仰を守り通して殉教しました。
1873年(明治6)、明治政府太政官布達によって浦上キリシタンが解放されたのち、この地は畑となっていましたが、1939年(昭和14)津和野教会の主任司祭であったイエズス会士のセルメニヨ神父が、メキシコ青年聖母会の寄付を受けてこの土地を購入し、1946年(昭和21)に津和野教会主任司祭となったネーベル神父が、1949年からこの地に広場づくりを開始し、1951(昭和26)には、聖母マリアと37人の殉教者に捧げる「乙女峠マリア聖堂」を建立しました。
ネーベル神父の志を継いだ後人たちはこの場所が祈りにふさわしい場所となるように心を尽くし、「キリシタン氷責め池」(1953)、「乙女峠の聖母とその殉教者」碑(1968)、「聖母と三尺牢の安太郎」像(1987)、「乙女峠記念碑」(2014)、などが整備され今に至っています。また、蕪坂のキリシタン墓地へと続く 「十字架の道行き」(1985)、も整備されました(広場案内のページ参照)。
1952年(昭和27)ネーベル神父が始めた「乙女峠まつり」(五月三日)には、毎年全国から多くの巡礼者が集まり広場を埋め尽くし、乙女峠の聖母マリアと殉教者たちを讃える集いを盛大に行っています(HOME-乙女峠まつりのページ参照)。
永井隆博士の絶筆 「乙女峠」(アルバ文庫、サン パウロ、2017)には、明治初期のキリシタン弾圧と津和野へ流されたキリシタンたちの苦難の様子が克明に記されています(直筆原稿、資料室のページ参照)。
ここを訪れる人々に力と慰めを与えるこの殉教地を守り、殉教者を顕彰するために、1979年に「乙女峠友の会」が発足しました。聖母の信心と殉教者たちの精神を自分の心の中に生かしたい人々に入会をおすすめいたします(「友の会」のページ参照)。