過去のみことば


聖霊降臨の主日(2024年5月19日) 

 

みんなは聖霊に満たされ、・・・語り始めた

 

 使徒言行録を読むと、部屋に閉じこもっていた弟子たちは聖霊の助けを頂いて、何も恐れず、勇気をもって福音を告げ知らせる使命に生きるものとなりました。そればかりかイエスの名のために苦しみに与ることを喜ぶほどに変えられていきます。

 嘗て主が言われたことを、自分たちの宣教の中で体験していきます。

 「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。(マタイ10:17−20)


 聖霊の助けは私たちも日常生活の中で体験しているのです。

例@ ペトロの場合

 イエスが捕らわれ、尋問されたとき、三度もイエスを知らないと答えて裏切ったペトロです。その弟子に復活されたイエスはお現われになり、三度私を愛するかと質問されます。イエスを裏切ったペトロの心の闇を癒されたのでした。イエスの許しと愛を体験するのです。


例A 乙女峠の証人 守山祐次郎少年

幽閉先の光琳寺の縁側に裸で縛り付けられ、役人から折檻を受けます。寒風にさらされ、鞭打たれて悲鳴を上げ、泣き叫ぶ祐次郎でした。寺の屋根の上に親雀が子雀にえさを与えるのを見つけます。すぐにゼズス様、聖マリア様のことを思いだし、「雀でもわが子を大切に養育してやる。まして、私がこの竹縁に責められるのを天からご覧になって、より以上に可愛く思ってくださらぬ筈がない。」と悟り、苦しみを耐え忍ぶことが出来ました。

雀を見て、神様の慈しみを悟って、力を得たことは、聖霊の導きではないでしょうか。


例B 私の場合

津和野教会の池には鯉が飼われています。しかしサギが鯉を狙って、人間の不在時を狙ってやってくるのです。鯉を守るためにいろいろの努力をしました。何度もサギを見つけるたびに追い払うのです。ネットで池を覆いましたが、効果はありません。中空に釣り糸を張り巡らしました。糸に引っかかったサギも学習したのでしょうか、現れなくなりました。サギとの戦いで悟りました。こんなに苦労して鯉を守っているのに、彼らは何も知らない。神様も私たちを守ってくださっているのに、私たちはその真実を知らないのだろう。

 

 私たち皆、何かの形で神様を体験する恵みを頂いているのではないでしょうか。聖霊の恵みで父なる神の導きに気づきたいものです。聖霊の照らしで、様々な出来事や出会いの中に、イエスを見出し、その導きを悟ることが出来ますように。



2024 0421復活節第四日曜日


わたしは良い羊飼いである


復活節の第一朗読箇所は使徒言行録から三年の周期で選ばれています。この季節は初代教会における弟子たちの生活と活動を味わうことになります。


復活された主との出会いは彼らの生き方を変容させました。彼らは官憲を恐れて、部屋に閉じこもっていましたが、復活された主と出会い、何も恐れずに主を告げ知らせるのです。主との深い一致の中で、宗議会で尋問されても、教えを宣べることを禁止されても、

「我々は見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4:20)

「人間に従うよりも神に従うべきです」(使徒5:20)

「み名のために、辱められるに値するものとされたことを喜びながら、議会から出ていっ

た」(使徒5:41) と述べています。


 今日はヨハネ福音書の第10章からよき牧者の話を聞きました。

 わたしは良い羊飼いである。・・・わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている


 よき牧者である主が私たちをどれほど心にかけておられるか、日々の生活の中で主と出会い、主の導きを深く悟りたいものです。そのためにも聖書をよく味わい、使徒たちの様に主に同化したいものです。