今日のみ言葉 (2025年1月25日)
一人一人が大切にされる社会に
「アイヌ『戸籍簿』売買に憤り」との新聞の記事(2025年12月11日)が目に留まりました。ヤフオクに出品され、落札されたものはアイヌ民族の「旧土人戸籍簿写 〇〇〇尋常小学校」と表紙に書かれています。戸籍簿には個人名、両親の名前、性別や生年月日などが記載されています。個人情報保護が訴えられている昨今、このような「戸籍簿」が出品されること自体に驚きを禁じえませんでした。
どんな人に渡って、どのような使われ方をするか。アイヌ団体の代表者は「アイヌの人権は無視されている」と憤っておられます。
また12月15日の配信記事では「日本人類学会(会長、海部陽介・東京大総合研究博物館教授)は過去に一部の研究者が行った遺骨収集や保管、研究のあり方がアイヌ民族を傷つけてきたとして、『真摯(しんし)に反省し、心よりお詫(わ)び申し上げる』とする声明を発表した」とありました。
一人一人の人権が無視され、また差別される根底にあるものは何でしょうか。出自、学歴、財力、容姿など他人との比較を無意識にしていないでしょうか。他人との比較により優越感を満足させたり、他人を妬(ねた)んだり、自分を卑下(ひげ)する心の内奥に秘められた情動に囚(とら)われてしまいます。一人一人が生かされ、大切にされる平和な社会が実現するように祈ります。
聖書からの教えを聞きましょう。
イエスの弟子であったパウロは体の例えをもって社会や共同体の意義を諭します。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(略)体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」
「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(略)目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。(略)見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリント書12:12−31)
一人一人は神さまから与えられた恵みと使命(役割)があります。それは自慢するためのものではなく、感謝し、社会のために、共同体のために互いに生かしていくためなのでしょう。
(山陰中央新報 1月12日の投稿記事)