今日のみ言葉 (2024年11月27日)
死者の月に
赦しと和解の聖地 津和野乙女峠
カトリック教会では11月は死者の月にあたります。11月3日には長崎浦上の四番崩れで津和野に配流された潜伏キリシタンの乙女峠での殉教者の墓参巡礼を行いました。キリシタンの殉教と聞くと江戸時代のことと想像されるのが普通でしょうか。津和野教会の乙女峠展示室を見学された方の多くが明治初期にあった殉教の歴史に驚かれています。
長崎の大浦天主堂が献堂された1865年、潜伏キリシタンの一団が天主堂を訪れます。応対したプチジャン神父に三つの質問をします。@サンタマリアのご像はどこ、A神父は独身であるか、Bローマのパパ様から派遣されているか。司祭の答えを聞いて彼らは答えます。「ワレラノムネアナタトオナジ」と。いわゆるキリスト教信徒発見の端緒でした。キリスト教禁教政策下の日本において、七代250年に亘る信仰の継承が行われていたことが驚きの出来事としてヨーロッパに伝えられます。
明治新政府は江戸時代の禁教政策を継承しており、長崎浦上の潜伏キリシタンたち約3400名あまりを西日本の10万石以上の20藩22か所に配流することに決定します(1868年)因みに、山陰地方では松江、鳥取にも配流されています。津和野藩は4万3千石の小藩でしたが、明治政府の神祇官要職にあり、田舎の百姓故、説諭による改宗を提言しています。
改宗をやれるものならやってみろとの思いからか、津和野には信徒のリーダーたちが配流されてきます。説諭改宗が思うように進まない状況で、心理的、身体的な拷問が行われ、配流者153名の内、37名の殉教者を出すことになります。配流解放後、森岡建夫(改宗役であった森岡幸夫の息子)はリーダーの一人であった守山甚三郎と乙女峠で面会します。
津和野において罪のないキリシタンを迫害した役人の息子が神の特別の恵みによってカトリックに改宗していたのでした。「彼はキリシタンを責め、惨忍なふるまいをしたことを心から痛悔し、守山甚三郎翁を津和野に招き、罪の赦しを願ったのである。(中略)彼は思い出深い池のまわりの草わらにひざまづいて涙ながらに『罪を赦してください』と願ったのである。甚三郎翁は彼の手を取り、『あなたが信者になられて、こんなうれしいことはありません』といいながら天を仰ぎ、涙を流して、彼がカトリック信者になったことを喜び、彼を祝福したのである。」(荻原晃著 日々の修養 昭和36年6月5日出版)
このエピソードは乙女峠マリア聖堂の献堂式の際(1951年5月13日)、司式をされた荻原晃広島教区長によって紹介され、参列者一同は感激の涙を流しました。
主イエスは言われます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5章44節)。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい(マタイ18章22節)。」
誰でも体験していることと思います。ちょっとした意見の相違から仲たがい、非難、恨みへと心の闇に引き込まれます。赦しと和解の聖地、乙女峠で祈りを捧げてみてはいかがでしょうか。