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1 (左) 明治元年、長崎浦上キリシタン流罪慶応元年3月17日、浦上の潜伏キリシタンが、ひそかに長崎大浦天主堂を訪ねたことによって彼らは発見されました。いまだキリシタン禁教であったので凡そ3,400人のキリシタンを棄教させるために、西日本20藩22カ所に流刑にされました。津和野藩はその一つです。2 (右) 津和野乙女峠で入牢津和野乙女峠の廃寺光琳寺は浦上キリシタンの牢になり、明治元年夏より明治6年夏までキリシタンの指導者とその家族153人が信仰のために苦しめられました。 |
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3 (左) 守山甚三郎、高木仙右衛門ほか同志氷責め棄教を断ったキリシタンは厳冬氷の池の中に投げ込まれたり、飢餓状態にされたり、その他さまざまな責め苦に合って37人は殉教しました。これによって日本魂の忠実さを表わし、神の恵みを受け、偉大なあかしになりまた。4 (右) 安太郎三尺牢で聖母マリアのまぼろしを見る殉教者の一人安太郎青年は寒い1月三尺牢(約1メートル四方の箱)に閉じ込められ、死に至るまで10日間、神秘的体験で、聖マリアの姿を見て、そのなぐさめの話を聞きました。この事を彼は密かに尋ねた3人の仲間に伝えました。 |
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5 (左) 祐次郎、スズメの親子をみて神の愛を知る殉教者守山祐次郎少年は、明治4年11月1日十字架にかけられ、続いて柱にしばられましたが最後まで信仰を守り通しました。或る時、屋根の上で小鳥のひなを世話している母鳥の姿を見て、母の愛の源である神の愛を悟りました。6 (右) 5歳のもりちゃん、お菓子の誘惑に、「天国の味はもっとおいしい」と答える「キリストが嫌だと言いなさい。おいしいお菓子をあげよう」 と5歳の女の子モリは役人に誘惑されましたが、 「天国の味はもっとおいしいよ」 と答えて餓死の殉教を選びました。 |
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7 (左) 転び者のつぐない「ころんだ」キリスト者は、激しい拷問に耐えられず棄教した事を悔やんで、つぐないとして乙女峠で苦しんでいたキリシタンに食物の差し入れをしました。彼らはふるさと長崎に帰ってから、そのキリシタンの取り継ぎで、再び教会の者になりました。8 (右) 殉教者の血はキリスト教の種である現代の宗教の自由は主に勇敢なキリシタンの5年間の苦しみの結果と見ることができます。哲学者、聖ユスチノ(西暦130年)は、「殉教者の血はキリスト教の種である」と言っています。長崎で浦上天主堂、乙女峠殉教地でマリア堂が建っています。 |