至福の園入口
千人塚
蕪坂墓地_至福の碑と37人の殉教者
津和野での殉教者の遺骨は蕪坂キリシタン墓地(追福碑)と呼ばれるあたりに仮埋葬されていましたが、明治24年にビリオン神父*と殉教者の遺族・関係者によって拾い集められ、改めて埋葬され、「至福の碑」が建てられました。
この場所は、乙女峠からこの蕪坂に続く「十字架の道行」の最終留にあたり、しばし祈り、瞑想する場となっています。
聖ユスチノ(西暦130年)は、「殉教者の血は奉教人の種である」 と言っています。新約聖書の福音書に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ」(ヨハネ12:24)とあります。キリストの跡に続く多くの殉教者のお陰で信仰は守られています。至福の碑の前に立つと、信仰の試練の中にありながら自己奉献に貫かれた、殉教者の純粋で素直な魂を感じ取ることができます。決して高ぶらない、自分の弱さを認め、ただこの世の旅路の終わりにある、パライソの夜明けを待ち望んでいる姿です。
天の父はかれらをいつくしみ深く抱きしめ、慰めてくださったにちがいありません。この「至福の碑」が、訪れる人の心の安らぎと憩い、新たな命の源泉、祝福の源泉となり、皆様の再出発の場となるように祈ります。
「至福の碑」の隣には、千人塚と呼ばれる「南無地蔵大菩薩」の石碑(永明寺31代住職によって建立された)があり、天保13年の大飢饉で亡くなった大勢の人々がここに埋葬され、供養されました。
<至福の碑>
表:為義而被害者真福 _ 「義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人のものだから
である」 マタイ5章10節
裏:長崎浦上村天主教信徒 _ 長崎浦上村の天主教(カトリック)信徒は
明治二年十一月為主耶 _ 明治2年11月、主のために
蘇之御名被捕受呵責 _ その御名のために捉えられ、責め苦を受け
而被促改教其間醸疾病 _ 棄教を強要され、またそのため病苦も受け
遂其生命者三十又二人 _ 遂にその32名の者が命を捧げた
其苗裔建之以為記念 _ その子孫が記念としてこの碑を建立する
明治二十四年八月
広島教区列聖委委員会は、津和野・乙女峠証し人の列聖調査に当たり、
津和野藩 異宗門徒人員帳(国立公文書館所蔵)
守山甚三郎 覚え書
浦川和三郎 旅の話
上記三資料を基に、調査検討を加え下記の37名の証し人のリストを作成した。至福の碑の左右には
証し人37名の名前が石碑に刻まれています(証し人のページ参照)。