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 浦上キリシタンの流罪





 幕府のキリシタンの禁制がしかれ、浦上では、俗に言う、浦上一番崩れ、二番崩れ、三番崩れで、多くのキリシタンが迫害に会いました。潜伏キリシタン (いわゆる隠れキリシタンだが、筆者は、1867年まで各地で潜伏していたキリシタンは、それ以降も隠れていたキリシタンと分けて潜伏キリシタンと呼ぶ)たちは、長らく天主様の教えをひそかに守っていました。浦上の信徒たちは1867年に「私たちは昔からのキリシタンの信仰を守ってきた家でありますので、これからはキリスト教の葬式(埋葬)を行いますからご承知下さい」という口上書を庄屋に届け出ました。庄屋は驚いて、これを長崎代官に届けました。これが「浦上四番崩れ」の発端でした。「四番崩れ」は、これまでの密告による捕縛ではなく、自分たちから積極的に申し出たものでした。その結果、幕府の知るところとなり、1867年7月10日、キリシタン114人が、長崎府知事、沢宣嘉から出頭令状で呼び出され、備後の福山、長門の萩、石見の津和野に流罪となることになりました

その中で、仙右衛門以下、国太郎、甚三郎父子ら非人は、津和野へ流罪となりました。


 1867年6月15日、捕らえ方総勢約170名が、あらかじめ作られていた幕府のキリシタン名簿に従い、次々に捕らえていきました。甚三郎は、中野郷長与道の秘密礼拝堂であった聖フランシスコ・ザビエル堂に松田喜助、真田幸之助らと共にいました。午前二時過ぎ、喜助が目覚めたところ、提灯の灯が30ほど近づいてくるのが見えました。これはたいへんと、2人を起こし、急いで聖堂の聖画をとりはずしました。甚三郎らは、10人ほど流れ込んできた捕らえ方役人に、捕らえられてしまいました。いや、むしろ、信念に従って捕らえられたと言ったほうが正しいかもしれません。

 喜助は、後ろ手に縛られました。甚三郎は、手を後ろにまわし、「どうぞ、縄にかけてくだされ」と堂々と答えました。役人はといえば、この甚三郎が魔術を行うことを恐れ、「術を使うな」と言い、そばに寄ろうとはしませんでした。『守山甚三郎の覚え書』 (パチェコ・ディエゴ著、以後、『覚え書』と記す。なお、以後の引用文はパチェコ氏の解説のままである) には、次のような内容が書かれています。

 その時私が手を後ろにまわして、「どうぞ、縄にかけてくだされ」と申しましたところが「術を行うな」と言ふて大きに恐れ、そのそばに近よらずして、投げ縄をいたし、三人をもって縄で厳重に縛りました。ところが首がしまりまして、道にまぐれて(気絶して) しまいました。水と気付けをもって、また、生かしました。

 その日捕らえられたキリシタンは200人あまりでした。家に残された家族の者たちは怖さに震えながら、ただひたすら、天主様に祈っていました。いっさいの様子は伝えられませんでしたが、これが、あの悲しい浦上四番崩れの幕開けになろうとは、誰が想像したでしょう。

 長崎で捕らえられたキリシタンは、小島というところの牢屋に押し込められていましたが、10月になったころ、桜町の牢に戻され、本格的な拷問が始まりました。それはドトイ (駿河問) と言い、足と手を背に寄せ、首と胸に縄をかけて背に縛りよせ、家の梁にかけた縄でまきあげ、棒やむちでたたき、下ろしてまた、水をかけるというものです。ますます縄が体にくいこみ、紫色になり、死人のように見えたほどでした。

 和三郎、元助、又市、清四郎、惣市、源八の六人が、このドトイという拷問を受けました。次に、甚三郎ら5人を同じ目にあわせようとしました。が、そこに残っていた100人あまりの人々は、そのような拷問が怖くなり、皆、改宗してしまいました。次に、責められた6人も、また甚三郎も、気落ちして、改宗してしまいました。
 たった1人転ばなかったのは、高木仙右衛門です。彼1人が残り、あとの82人は、牢から出されました。甚三郎は、このときのことを 『覚え書』′の中で次のような内容の述懐をしています。

 それより浦上に帰り、わが家に行きましたれば、なにぶん内にもいられず、外にもおられず、天主を捨てたと思いましたら、一つの体をおるところがありませんゆえに、昼も夜も山の中にいて、三日三晩泣いておりました。それより、天主、サンタ・マリア様の力をもって、天主に立ち帰り、人々をすすめ、官にかけこみ、ふたたびの責め苦を受け、責め殺されるつもりにて、人々をすすめまわりました。ところが大分仲間ができました。それより、村の庄屋の玄関に頭を下げて、もとのごとく改心もどし願いをいたしました。

 「改心もどし」とは、信仰を捨てたが、あとで改めて信仰を持っていることを確認し、再認識してもらうことです。むろん、一度転んだのであるから、そこであらためてキリスト教の信仰を持つということは、今度は、死を覚悟していました。もっとも、信仰を守り通した仙右衛門が帰され、それを迎えた村人たちの喜びようを見て、自分たちもということであったのかもしれません。いかなる理由にしても、「改心もどし」ということに、庄屋は驚きました。当時、庄屋というのは、村の代官のような役目をしていたからです。