この乙女峠には明治初年まで光琳寺という寺がありました。明治元年から六年まで百五十三人の長崎浦上のカトリック信者が信仰のためにこの寺に収容されました。彼らは戦国時代の信者の子孫であってその信仰をひそかに守っていたのです。 全国各地へお預けの身となった者のうち、津和野へ流された彼等は四年の間信仰を改めるようにと此処で筆舌に尽きぬ辛酸をなめさせられました。そのうち遂に五十四人は棄教しました。信仰を忠実に守り通した信者の中には困難な生活と残酷な拷問のために殉教の死を遂げた者が36人ありました。彼等のうちの一人安太郎は三尺牢に入れられ、そこでキリストの御母聖マリアの出現を賜って死の前に強められ、励まされたのであります。明治六年には宗教の自由が宣言され生き残った者は長崎に帰りました。 殉死した三十七人の墓は蕪坂の「至福の園」にあります。「十字架の道行」の最終留にあります。 |
私は此の三尺牢獄の内にて淋しゅうはござりません。九つ(夜12時)より先になりますれば、頭の上に青い着物に青いきれをかぶりサンタマリア様の御影の顔立ちに似ておりますご婦人がお現れ下さる。その人がものがたりをいたして下さる故少しも淋しゅうはござりませぬ。けれどもこのことは私の生きておるまでは人に話して下さるな。 |
この織部灯籠は織部焼と共に安土桃山時代から江戸初期の茶人で、有名な大名であった古田織部正がはじめて南蛮的なものを取り入れてつくったものの一部で全国に流行をみたものである。織部正は十七世紀初め、信長、秀吉に仕えた三万石伊勢松坂の城主で千利休に茶の湯を学び、利休なき後は一流をなしたが関ヶ原役で大阪方に殉応自刃した。しかし、一部の織部灯籠にはキリシタン灯籠といわれるものもある。 |
ここから殉教者の墓「至福の園」まで、600メートルの山道は十字架の道です。エルサレムでローマ総督ポンショ・ピラトの官邸から町の外カルバリオという丘までイエズス・キリストは十字架を運びました。 その道はVIA CRUCIS(十字架の道)と言われて初代教会から今日まで巡礼の場になりました。 人はキリストの救いのみ業を、十字架の道の十四留を通してたどりながら、自分との係わりを黙想する。これは十字架の道行の祈りです。 聖書 マタイ 27・11−66 マルコ 15・ 1−47 ルカ 23・ 1−58 ヨハネ 16・28、19、42 |