■住所:

〒699-5605、
島根県鹿足郡津和野町
  後田ロ 66-7
津和野カトリック教会
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 津和野 乙女峠





 津和野は風光、山水の美に恵まれ、日頃忘れがちな故郷を想い起こさせてくれるところです。またここにキリシタン殉教地「乙女峠」があることは、日本国中はもとより外国にも知れ渡ってきました。慶応元年(1865)長崎浦上の四千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺と呼ばれて日本人は立入禁止であった今の大浦天主堂に入り「サンタマリア様の御像はどこ。ここにおります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます」との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。徳川二百五十年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受け止めたのです。

 しかしキリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ三千四百人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。鹿児島、萩、名古屋等の二十か所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を誇り、頭主亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからでした。藩出身の国学者である福羽美静の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる努めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚くたやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼らは最初とっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめたのです。キリシタンたちは着のみ着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、又乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引きあげて、今度は火あぶりにして責めました。

 キリシタンの中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚書のなかに書いています。 見せしめのために若者を三尺牢という小さな檻に押し込め、人間の弱さを最大限に利用する心理学的拷問まで行いました。その一人安太郎という若者は明治二年一月十日裸のまま雪の中の三尺牢に入れられました。おとなしくて明るい性格で立派な人でしたから、役人は彼が棄教すれば他の者も教えを捨てると思ったのです。しかしその反対に皆は安太郎のために祈り、心配して三人が慰めに行くと決め、貨幣をナイフの代わりに用いて床に穴を開け、安太郎を訪ねました・一月十七日密かに彼を訪問した時、彼の言葉を聞いて驚きました。

 「私は少しも寂しゅうはありません。毎夜九ツ時(十二時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様のような面影のご婦人が頭の上に顕れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです。」 この安太郎の言葉は守山甚三郎の覚え書に残されています。守山甚三郎ともう一人の記録をよく残した高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしました。五年間の拷問、責苦や殉教のありさまの月日を、毎日あてがわれた塵紙に忠実に詳しく書きました。甚三郎と仙右衛門の記録が最も大切な書となって今日まで保存されています。役人は勇敢な甚三郎を憎んで、彼の弟十四歳の祐次郎を杉丸太に十文字にしばりつけ、その後裸にして縁側に座らせいろいろ責めました。むち打たれるたびに少年のキイキイと泣き叫ぶ声が牢まで聞こえ、みんなはわが身が責められる思いがしました。

 二週間後祐次郎は遂に危篤状態となりました。役人の森岡はその時自分の行ったことを恥ずかしく思い、看病のため少年を姉マツに渡しました。マツに一生懸命温められて、やっと意識をとり戻した祐次郎は「責苦を受けている時、悲鳴をあげてしまって、さぞや姉上の耳に障ったことでしょう。ご免なさい。八日目、もう耐えきれぬと思っていた時、向こうの屋根の上を見ると、一羽の雀が米粒を含んできて、激しく鳴いている小雀の口に入れてやっているのを見ました。私はすぐイエズス様、マリア様のことを思い出しました。小雀でも神様から親雀によって大事にされ、守られていると思うと、まして私がここで責められるのをご覧になって、より以上にかわいく思ってくださらぬはずはない。こう思うと勇気が百倍して何の苦しみも無しに耐え忍ぶことができました」と話しました。雀親子の愛を見て神の本性が愛であることを悟った祐次郎は明治四年十一月二十六日、その美しい魂を神のみ手にゆだねました。記録の中には、まだたくさんの美しいことや悲しいことがありますが、そのもう一つは、五つの女の子モリちゃんの殉教です。

 飢えに苦しんでいる子に役人はおいしいお菓子を見せて、「食べてもいいけどそのかわりにキリストは嫌いだと言いなさい」と言うと、その子は、「天国の味がもっといい」と答えて永遠の幸せを選びました。人間的に弱かった何人かは、口でキリストを捨てましたが、働きで得た金で食べ物を買い、信仰を守り通している人々にひそかに差し入れをして助けました。この謙遜な痛悔と犠牲がキリストの真の精神だと認めたキリシタンたちは自由になって故郷長崎に帰った時「ころんだ」仲間たちの弁護をし、彼らは赦しを得て再び教会に入れられました。

 明治二十五年ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。なお第二次大戦後、ネーベル神父(岡崎祐次郎)は、乙女峠に記念聖堂を建て、そのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所となるように心をこめ、力をつくしました。彼が始めた乙女峠まつり(五月三日)は全国から集まった数千人の巡礼者によって、乙女峠の聖母マリアと殉教者たちを讃えるお祝いになりました。

 数多く訪れる人々に、力と慰めを与えるこの殉教地が、より発展するために、「乙女峠友の会」が出来ました。聖母の信心と殉教者たちの精神を自分の心の中に生かしたい人々に入会をおすすめいたします。最高の愛である殉教、その泉である信仰、キリストによる救い、聖母マリア、カトリック教会、またはあなたのご心配ごとについてお住まいの近くのカトリック教会を遠慮なくお訪ねください。